第213期 #8

赤橙

 先生は静かに言う。
「あなたの気分の高ぶりや、落ち込みについて、いつかあなたは、おぼれそうになりながら水に浮かんでいるようです、といったわね」
「はい。船から落とされた乗客のようです。波に沈んでいるときは苦しくて、目だってろくに開けられない。なのに水の上に出たら、太陽は明るくて気分がよくて、憎らしい船長たちが私のことを見て嘲っているのに、それに笑顔で手すら振りたくなってくる」
 先生がくすっとわらった。私の心のプロペラが小さく回った。
 通い始めたばかりの頃は、どうなることかと思ったけど、先生は優しい。自然に話しをすることができるようになって、本当によかったと思う。

「気分のたとえだったら、こんなのはどう? あなたはちんけで、頭は穴あき」
 私は縮んだ。先生は私を傷つけようとしているの? 
「そこに糸を通してね、長い糸。何色が好き?」
「……赤橙」
「赤橙のね、どこまでも続く糸があなたの頭の穴を通ってずーっと伸びている」
 私は馬鹿にされているのではないと知ってほっとして、先生の目を見る。
「あなたも、私も、みんなね、糸が通った縫い針なの。それでね、毎日、真っ平らで何もない、意味なんてない白い布みたいな世界を浮いたり沈んだりしながら進むの。曲がっても、後戻りしてもいいし、浮き沈みはいくらだってしてもいい。そんな糸と糸が重なったり離れたりしながら、布に模様を描いていく。ミシンのように決まった道を進む糸もあるだろうけど、みんなそううまくはいかないわ。いつか誰かが人類を外側から見たら、とてもきれいだと思うな。特にあなたの描く赤橙はとっても濃いだろうから」
 私は自分の色を意識して、高揚した。私の気分にだってちゃんと意味があると思った。でも、
「でも、全然前に進めないんです。毎日毎日、同じことばっかり考えている」
 先生は少し考えて、
「そうね……そのときは、そこにボタンでも縫い付けましょう!……なんてね。自分が進んでいないと思う日でも、布が勝手に動いてくれる日だってあるのよ」
 先生は笑って言ってくれたけど、私は自分の思いつきに夢中だった。同じところをぐるぐる縫い続けて、私の赤橙の糸が作るこぶは、いつか夕日みたいに大きく、みんなの作った世界を照らしてくれるんじゃないかな。ふいに訪れた、自分に不釣り合いなほど大きい優しい気持ちに押しつぶされそうになりながら、私は、みんなと仲良くしたいなあ、と強く思った。



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