第213期 #9

基礎AV鑑賞理論 第8講

えー、席についてください。

第7講は担当教諭の都合により来週末に補講となりましたので、繰り上がりで第八講の担当の私が今日の授業を行います。今日はみなさんに少し話があります。

先週の六講「疑似精子とカメラワーク」で中出しモノの撮影で使われる基本的な技術の説明をうけましたね。

毎年あの授業では男子生徒の半分が泣いているんですね。今年もそうでしたか?僕もあの授業をするのは嫌なんです。もちろんここにいるみなさんが事実に泣いているんではないのは重々承知しております。ええ。事実を理解したうえで自分をだましてきたんです。だますといっても嘘や偽りをこしらえるということではなくて、言い換えるなら我々は「信じてきた」のです。

様々なもごとは移り行くものです。

その授業を境にモザイクのむこうの白濁が意味を失ってしまった生徒も多いと思いますし、「あえてそれに言及する必要があるのか?」という憤りもあると思います。

しかし、それらは回復することができるということを私は宣言したい。たとえ疑似精子が、、失礼。あの白い液体がなんであれ、その解釈こそが鑑賞者の責任であり、受け入れ方こそが鑑賞なんですね。現場の責任はしみけんにまかせておけばいいんです。

もしあなたがたがモザイクのむこうに精液を認めなかったらそれは中だしモノのAVをみたことになりませんし、そうなると疑似精子に文句をいうのはお門違いというものです。もしあなたが中だしを認めたらそこに疑似精液などは存在しえないのです。うつり行く価値についてはAV鑑賞応用の11講「性と愛」で掘り下げますが、失った後に愛せないなら最初から愛していないということです。汚したら美しくないものは最初から美しくないんです。

泣いている生徒も顔をあげてください。これから受講するクラスには高度な鑑賞者になるために必要なカリキュラムがくまれていますし、これからも少なからず痛みを伴うことになると思います。しかしそれは必要な痛みでもあります。

 よい鑑賞者になるということは肉屋の店主になるということと似ているのです。肉塊を大きな包丁で部位ごとに区分けしていくように、我々は必要な論理の刃物を獲得しなければなりません。しかしその刃物は試し切りを必要とします。そして論理の刃物で最初に切られるものは自分自身だと決まっているのです。

さあ、前置きが長くなりましたが、授業を始めます。エロ本17ページを開いて。



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