第21期 #8
「いい名前でしょ、化物っぽくなくて」
そう言いながら少女は顎を引いて、かるく笑ってみせた。どこかの私立小学校の制服にも見える丸襟のブラウスに吊りスカートが、その幼いすがたによく似合っていた。
私が少女に会ったのは小雨の上がりきらない、しめっぽい雲が月をおおいこんでいる春の夜だった。残業の帰りに近道をしようと公園をつっきったときに、遊具の陰で雨宿りをしている小さな背中を見つけて、迷子かと思って声をかけた。呼びかけに振りむいた少女の目が光のほとんどない夜のなかできらりとまたたき、そのときはじめて私は、少女の足もとにうずくまっている陰に気がついた。
それは人だった。
立ちすくむ私に少女は目をみひらいて、しばらくそのままでいた。散歩をさせてもらえない犬のような、あいてをうかがう目をしていた。しめった土のにおいにまじる、古びた遊具の錆のにおい。鉄錆のにおい。くいと引きむすんだそのくちびるから、つうと赤いものがつたった。少女が片手をあげて、まっすぐにのばした指のさきで、くちびるの汚れをぬぐいとる――そのまま指はくちびるを割り、ぐいとななめに持ちあげ、肉食獣のように鋭く長い牙を、むいてみせた。
「殺したわけじゃないわ」
少女は足もとに視線をおろして、それからまた私を見た。
「むしろ、いい思いしてもらったの。血を吸われるとね、気がとおくなるの。とっても気持ちいいのよ――いいらしいわ。あたしは血を吸われたことがないからわからないけど」
その声がすぐ耳もとで聞こえ、ぎくりと身を引いた私の傍らに、いつの間にか少女は立っていた。肩にかけられた手の力はおどろくほど強く、私は少女の目の高さにあわせるように膝をつかされていた。十二、三にしか見えない少女が、愛を囁くときの甘い声音でうたう。恋人をかき抱くしぐさで、ほそい腕が私の背にまわされる。応えるように私も、少女のからだを抱いていた。
「幸せな世の中って書いて、ゆきよって読むの」
ずぐり、と、肉にひびく音をたてて少女の――幸世の牙が私の肩に沈む。
あたしの名前を呼んで。幸世って、呼んでくれたら殺さないであげる。血を吸うだけにしてあげる。
幸世のことばは音ではなく、差込まれている牙から手繰られる血のかわりに、毒を送りこまれるように私の肉にしみていった。あ、あ、とあえぐ私の声は声になっていただろうか。
ゆきよ、と。
私は、少女の名を呼べただろうか。