第21期 #7
「傘をとってごらん」
突然紫陽がそんな事を言った。
一体どうしろと言うのだろう。今朝方から降り始めた雨が、午後になっても辺りの樹々を、撓らせている。わたしは寒いのもびしょ濡れになるのもごめんだ。
だけど、わたしは彼に逆らえない。正確には、逆らわないんだと思う。
いつだって、彼はわたしを幸せにしてくれるし、わたしもそれが心地よい。まるで、温かい水の中から一生出られない魚みたいだ。
そっと、傘を、降ろす。
「満ちる、聞いて。」
「……」
何を?そう思うより早く、わたしの耳に、新鮮な響きがひらけた。
それは、たった今まで私がいたところから、急に違う場所に連れて来られたような感覚だった。
バサバサ、ぽたぽた、ざあっざあっ。
傘に隠されていた沢山の音達が、姿を現した。
わたしは彼に微笑みを向ける。
やっぱり紫陽は、私の幸せの箱だった。
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一羽の鳩が、茂みから現れた。東京の、汚れた雨に、濡れている。
「可愛そう。」
大粒の雫が降り注ぐ中、鳩はとても急ぎ足だ。
だがしかし、彼は言うのだった。
「そうかな?」
「雨はあらゆるものに平等に降るんだぜ。鳩だって、小さいけれど、俺達よりは雫は当たらない。」
幼馴染はいつものように、意地悪を言ってよこす。彼はいつも私の幸せな空想をぶち壊すのだ。
私は不意に泣き出しそうになった。
バサバサ、ぽたぽた、ざあっざあっ。
―それで、いい。
かつてわたしの幸せであったことは、みんな私を苦しめた。
「幸せ」の送り主が居なくなってしまったというだけで。
「満ちる、」
私は何も求めない。すっかり臆病になってしまった。
「なあ満ちる、でもいつまでも雨に濡れるのも癪だよな。」
「……」
「傘。」
開かれた傘の下で聴く音は、百年前に聴いたような、懐かしさだった。