第209期 #4
「生。紅ショウガと牛カツとキスフライにアスパラ」
席に着く前に注文を告げると男は丸いパイプ椅子にどっかと腰を下ろし「やれんわ今日はー」とつぶやきながら左手でネクタイを緩める一方、右手では袋に入った筒状のおしぼりを机に縦にたたきつけパン、と器用に袋を割り中身をつまみ出して顔と首筋を拭いた。顔を拭き終わると同時に「生お待たせしましたー」と店員が生ビールを持ってくる。男は一瞥もくれずにビールに口をつけ喉を鳴らす。ジョッキを持つ左手にはライターも握りこまれており、右手は背広のポケットにあるハイライトの袋を神経質に揺らしタバコを一本取り出す。煙を深く吸い込んで吐き出すと、やっと一日の終わりを実感し、リラックスした血管にビールのアルコールが染み渡るのを感じる。
「お待たせしましたー、こちら左からアスパラと」と串カツの中身を説明しにかかるバイトを手を振って制し、紅ショウガ串を取り上げ目の前のバットのラップを剥がして記憶の海にどぶ漬けし、零れるのにも構わずかぶり付く。
痴漢っていろいろあると思うけど、基本触れるか触れないかくらいでグレーゾーンって言うの? そういう感じで手の甲で触れてくるんだけど、そいつ違うの。お尻なんだけど、悪意? 感じるくらいにすごい力で握られて、痛い! って振り返ったら善悪の判断は一応ついているみたいなんだけど自信なさそうな、母親に何かを訴えるような、新幹線のトイレの便座みたいな顔した男がじっと顔見てるの。そいつが取り押さえられるまで、五秒くらいかな、、、謝ろうともしないで、でも馬鹿みたいな力で握っていた手は緩めて、撫で回すの。私のお尻のところ。ほんと、ソフトタッチで。なんか、撫でられてるうちにそれもいいな、って思って結婚したのが今の旦那です!
男の頭に見知らぬ誰かの記憶が流れ込む。紅ショウガの酸味に負けないくらい強い味に思わず男は顔をしかめて剥がしたラップを見るとそこには「サエデの記憶 25歳 専業主婦」とある。見知らぬサエデの記憶のえぐみは強いが、その遠くに甘みを感じるようで、男はその正体を突き止めたいと食べかけの紅ショウガ串をバットに突っ込もうとした。
「二度漬け あかん まもろう みんなの アイデンティテー」
張り紙を見ながらティテー、と口に出すと男は少し冷めた紅ショウガをそのままかじった。さっきよりだいぶぼやけた記憶の中でサエデたちが笑っていた。