第20期 #13
私の弟は小学五年生である。家庭訪問に来た弟の担任はめくれた唇をぺろりぺろり舐めて常に薄笑いを浮かべていた。
「これが孝太君の答案なんですがね」
どの教科も九十点以上で特に算数は満点だった。氏名欄に五年三組チャーラン・プーと書いてあった。
「本名がチャーラン・プーだと言い張るのです」
母は困惑しつつも本名は杉本孝太であると答えた。
「ご主人が外国の方なんですか」
「いいえ」
母は離婚したので、母がこの家のご主人である。言葉を知らない男である。
「しかし幾分は外国の血が混じっているとか」
「いいえ」
「腑に落ちませんな」
血が混じっていようといまいと関係のない話である。そんなことを気にする教師のほうがよほど社会人として腑に落ちない。
夕食時、弟に聞いてみた。
「なんで答案用紙にあんな名前、書いたの」
「今まで隠していたけど、ぼくは火星人なんだ。本名はチャーラン・プーなんだ。これからは本当の名前で生きるんだ」
弟は火星人のくせに勉強は真面目にやっていた。私は近所の弟の同級生の女の子に学校の様子を聞いた。弟のクラスでは二学期直前に自殺した女の子がいたらしい。いじめにあっていたらしい。クオーターで美しい褐色の肌の少女だったそうだ。それ以来、弟は自分が火星人であると言い出したそうだ。担任は、火星人は授業に来なくていいと言ったそうだ。孝太は転校したことになって、クラスのみんなが色紙に寄せ書きを書いて、担任が「さようなら孝太君」と書いて弟に渡したそうだ。
弟は体に青痣をつけて帰ってくるようになった。学校は見ぬふりをしているようだった。父なら、学校に怒鳴り込みに行くだろうか。兄なら、いじめっ子を殴り返しに行くのだろうか。けれども私は姉であるのでそのようなことはできなかった。母は心労が続いてそろそろ倒れてしまいそうだった。
ある夜、弟は庭に出て火星を見上げていた。茶色のシャツを着たなで肩の小さな後姿は柴犬みたいだった。
「君は自殺した女の子を助けてやれなかった自分自身が許せないのだろう。本当は学校でも社会でもなくて、君自身が強くならなきゃだめだろう」
弟は返事をしなかった。火星のことを考えているらしかった。火星では一生懸命働いてはいけないそうだ。皆が平和に暮らしているそうだ。火星人は自由で誇り高い種族だそうだ。
「火星に帰りたい。火星に帰りたいよ」
不意にそう言って、彼は、ぽろりぽろり、大粒の涙を流した。