第19期 #21

腐れ名月

 いやに長いエンドロールが漸く終わり、ぞろぞろと席を立ち始める黒衣の観客達の幾人かは感極まったせいか明らかに融け始めていて酷い腐臭を発していた。見れば完全に融け果ててしまい座席に黒衣のみを残しいている者もいた。彼らが出払った後、私も席を立ちスクリーンに背を向けた。館内の廊下は相変らず薄暗く、壁一面の色褪せたポスターももう随分と長い間貼りかえられていない。何気なく天井を見遣ると大きなサジキシャクトリが這っているのが見えた。
 冗長な映画も時に実在的思索をうながすものだと思いながら、黒衣の客等を避け改札に向かい、呆けきった犬のような顔をしたモギリの男に定期を指し示し構内に這入ると、丁度ホームに滑り込んできた最終連絡列車に乗り込んだ。人気も疎らな車両のやけに硬い席に座るといつものように大きく開いた天井から腐りかけたまん丸い月を見上げた。月は時折ポトリとその腐肉を滴り落し、その度に街は恐ろしい叫び声を上げ、抗議でもするように白いサーチライトをぐるぐると回していた。
 酷く詰まらなかった映画の内容を反芻しながら、それとは別に思うのはいつの頃からかずっと続けている夢のことで、その中で自分はこことはまるで違う街で毎日仕事に追われながらも、何も変わることのない平凡な日々を至極平穏に過ごしていた。何よりもその夢の良いところは腐った月の代わりに真っ白で静穏な月が昇ることで、それはもううっとりとしてしまうくらいなのだけど、夢の中の自分は仕事に疲れ草臥れ果てていて、夜見る奇怪な続き夢(それはつまり今私が現実として生きているここのことなのだけど)だけを楽しみにしていた。私に言わせてみれば日々何事も変わらない夢の中の私の生活はまるで天国のようなのだけど、夢の中の私にとって、そこは殆ど地獄なようなものらしい。
 奇妙なことなのだけど、「夢の中の私」と「私」の思考は乖離していて、私は彼の思考がまるまる解かるのに彼からは私のことがまるで解からないらしいのだ。その代わりに彼が夢見る時(つまり私にとっては今)、私は彼の存在を全く感じることが出来ないでいる。そんな関係はまるで他人のようなのに彼は私自身に他ならないと思えるのが不思議だ。今私そのものであるところの彼は私の思考を覗きながら何を思っているのだろうか。
 また月が腐肉を垂らしたらしく街が叫び声をあげた。私は耳を塞ぎ夢の中で見る銀盤のような月のことを思った。



Copyright © 2004 曠野反次郎 / 編集: 短編