第19期 #20

リップクリーム

 唇痛いからあんましゃべりたくない、と私が言うと母はお茶をしっかりと注ぎきってから、棚の上の小物入れを開いてリップクリームを取り出し、「ハイ」と私に差し出した。
「なに?」
「リップクリーム」
「うん」と気のない返事をしてから受け取った。「お母さんのでしょ?」
「いいから、使いなさい」
「え、やだよ、自分の……ないけど、買ってくるから」
 と言ってリップクリームをテーブルの上に置くと、母は腰に手を当てて私をじっと見下ろした。
「あんたさあ、もう二十……」
「はち」
「その年でなに中学生みたいなこと言ってんのよ」
 母は向かいの椅子に腰をおろして、湯呑みを手元に引き寄せた。湯気に手をかざして、その手を頬にあてる。
「私は四十になっても五十になってもお母さんのリップは使いません」
「かーー、じゃあ六十になったら使うわけ」
「そのころお母さんが生きてればね」
「かーー」と大げさに目を丸くする。リップクリームを手にとって、自分の唇に軽く塗り、開きっぱなしだった小物入れにしまった。
「あんた、怖いこと言うわねえ」
「八十まで生きれば十分でしょ」
「まあそりゃねえ、それまで元気でいられればねえ」
 感慨深げに首を振ってから、母は眉間にしわを寄せて私の顔をじっと見る。
「ねえ、あんた彼氏できた?」
「できない」
「そろそろあせりなさいよ」
「言われなくてもあせってます」
「だよねえ」
 と感じ悪い口調で言ってから、何かに気付いたように手を広げる。
「あのさ、あんたの口紅貸してよ」
「は? なに言ってんの」
「口紅貸してって言ってんの」
「自分の使えばいいじゃない」
「放っといたらね、なんかヘンな臭いすんのよ」
 そういえばずっと、母が口紅をするのを見ていない気がする。
「そんな臭いなんて気にするんだ」
「そりゃあんた唇臭かったら嫌でしょう。すぐ鼻じゃない」
 笑ってしまう。負けた、と思った。私はカバンの中から口紅を取り出した。まだ買ったばかりで、ほとんど使っていない。テーブルに置くと、母はびっくりしたように口紅と私を見比べた。
「いやに素直じゃない」
「いいよ、それあげるから」
「使ったら返すわよ」
「いらない」
「返すわよ」
「いらないってば」
 きりっと言うと、ようやく観念したようだった。
「じゃあありがたくいただきましょう」
 と弾む声で母は言った。壁にかかった写真の父は相変わらずの笑顔で、私は目をそらしてしまう。
 唇のひび割れを舐めると、ヒリリと沁みた。



Copyright © 2004 川島ケイ / 編集: 短編