第187期 #5
耳鳴りが始まったのは、ひと月ほど前のことだ。
当初のそれは虫の羽ばたきのように聞こえた。耳のなかに異物が入ったのかと、ペンシルライトの光を当てて鏡を覗きこんだが、それらしき気配はない。小さくぶんぶんと聞こえるそれは煩わしくはあったが、BGM だと思えば特に気になることもなく慣れてしまい、生来の面倒くさがりも相まって、病院に行くのを後回しにしたまま日が過ぎた。
耳鳴りの聞こえ方が変化してきたのは、半月ほど前のことだ。
一定の音が絶え間なく鳴り続ける当初のそれとは異なり、音に上下動と強弱が備わり、かちかちという音に聞こえる。単調な音ではなくなった異音が耳障りになり、耳をそばだててしまうようになったのはそれからすぐのことだった。そばだてるといっても単なる耳鳴りにすぎないのだ。ばかげていることとはわかっているが、それでも。
なぜ、その異音の連なりのなかに、意味を見つけようとしてしまうのか。
世界は言葉でできている。そんなことをあらためて考えてしまう。家を出てから大学に辿り着くまでに耳に入ってくる通りすがりの人たちの会話。講義を進める講師の発する言葉。見知った人たちとの挨拶。そうした、あって当然の言葉の世界に、異音は暴力的に割り込んできて、注意を引こうとする。目の前の友人との会話をおざなりに続けながら、異音の変動に耳をすませる。そうして、その音の流れから意味を汲みとろうとする。
やがて異音に振り回されて日常生活がままならなくなったので、億劫に思いながらも、やっと病院へ足を向けた。年老いた医師はペンシルライトの光を耳の奥に当て、ノイズですね、取ってほしいですか、と問うてきた。もちろん、ないほうがいいですと言うと、寸時に吸い取られ、異音はなくなった。後に残されたのはこれまでどおりの日常と、穏やかに流れゆく生活音だった。それはもう、呆気ないほどに。
治療代を払って外に出た。通りすがりの人たちの会話が聞こえ、店先で売り込みをしている店員の声が聞こえる。アパートに戻ると無音の部屋が待っていた。耳をすませるけれども、意味のある言葉は聞こえない。部屋の中央ではひと月ほど前から彼女が眠り続けている。耳をすませてみるけれども、彼女はずっと口を開かない。彼女の声は聞こえない。