第182期 #13

バス

「あんた、自分の名前が分かるかい?」とその男は声を掛けてきた。
 私はしばらく考えてから、分からないと答えた。
 そこは広い草原であり、私は羊のような白い岩に腰かけていたのだった。
「じゃあバスに乗りなよ。自分の名前も分からないようなら、きっと行く当てもないのだろ?」
 近くには大きなバスが停まっており、男の言っていることもその通りだったので、私はバスに乗ることにした。
「俺は鼠と呼ばれてる」と先ほどの男は、バスを運転しながら自己紹介をした。「他にも猫やキリン、鯨にゴリラもいるんだぜ」
 つまり、バスに乗っている一人一人に動物のあだ名があるということだ。バスには10人ほどの仲間が乗っており、みんな私と同じように自分の名前を忘れてしまったのだという。
「あたしたちは、いろんな街を回りながら商売や芸をしているの」と、猫と呼ばれている女は言った。「偶然その街が故郷だったりすると、自分の名前を急に思い出したり、家族や知り合いが見つけてくれることがあるのよ」

 私は羊と呼ばれることになり、バスの仲間と旅をすることになった。商売や芸は苦手であまり役には立っていなかったが、みんな私に優しくしてくれた。
「わしらの目的はな、どこまでも旅を続けることなのだよ」と、ヤギと呼ばれている老人は言った。「わしはもう50年もバスに乗っているがね、そのずっと前からこのバスは旅を続けているのさ。途中で名前を思い出して去っていく者もいれば、わしみたいに死ぬまで思い出せない者もいる。でも必ず新しい仲間が現れて、旅が続いていく」

 それから10年過ぎた後、私はある街で自分の名前を思い出した。
 手相占いを身につけた私は、仲間が芸をやっている傍らで商売をしていたのだが、そのとき客の女がいきなり私に抱き着いたのだった。その瞬間とても温かい涙が頬を流れて、私はすべてをはっきりと思い出したのだ。
「自分が死んだあとも旅が続いていくことを想像すると、楽しい気分になれるのさ」と老人は死ぬ間際に話していた。「わしが死んだあとはまた別の誰かが現れて、わしと同じヤギと呼ばれるようになる。そのヤギは、わしとは全然似ていないが、バスの仲間と旅を続けるのさ。そしてヤギはある街で商売をしているときに、昔の恋人と再会して名前を思い出す。でもそのあとに、やっぱりまた新しいヤギが現れて、そうやってわれわれは、いつかこのバスで、どこかへたどり着けると思うんだ」



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