第182期 #12
タネオの数少ない台所用品には、スムージーなんて文明の用具はなかったけれど、手曳きの珈琲ミルがあった。そして、タネオの生活の潤いでもある、珈琲豆があった。タネオは、その豆を渋谷の宇田川町にある洗脚ビル地下一階の自家焙煎喫茶まで買いに行っていた。本棚の整理といいながら、部屋に本が十数冊しかない生活において、自家焙煎の珈琲豆があるという贅沢さは、経験したことがないとわからない種類の興奮である。
タネオの「いきつけ」の喫茶店は、店主はいつもボーッとしていて、ほとんど何も仕事をしなかった。デザイナーが本業である妻が焙煎をふくめた実質的なことをおこなっていて、今回タネオが買った豆はコロンビアの浅煎りである。前回はモカ・シダモを深煎りにしたものだった。女店主が言うには、「浅煎りしたコロンビアのほのかな酸味にはユウモア小説が似合う」とのことだった。たしかに、浅煎りの酸味の珈琲を楽しむには、渋い顔は似合わないとタネオも飲んで実感したから、タネオはマリア=ピリスが弾くモーツァルソナタ集をCDにセットして、珈琲豆を挽いた。
タネオはパチンコをやったことがないので、パチンコ玉を眺める気持ちというものはわからなかったかわりに珈琲豆を眺めることはよくあった。ミルに一粒ずついれて、時計まわしにまわすと、ガリガリという音と、ある種の豆の抵抗、豆の重みというものを右手に感じる。そしていっきに狭い台所と部屋にひろがる珈琲の香りというもの、これも、狭い部屋で珈琲豆を手で挽いた経験のない大金持ちには理解できないかもしれない。タネオを包む珈琲の香りには、流行であるところのアロマセラピーであった。
沸騰させたヤカンの湯を、さきほどの抵抗をかんじたコーヒー豆に落としていく。粉状になった珈琲豆が、落とした湯に反応してこんもりと山をつくるとき、まるで珈琲の精霊とタネオが一瞬ではあるが、通じ合ったような気持ちになる。そういうやりとりは、厳粛な儀式としてタネオの部屋で行われて、その結果にできあがった黒い液体は、一杯の珈琲とよぶにはあまりに尊い何かをタネオに残した。一杯の珈琲をつくるたびに舌の隅々で今回の珈琲豆を味わおうとした。コロンビアの浅煎りは、淡いピンク色のワンピースを着た上品な女性が冬の室内で窓に息をふきかけて曇らせているのを、目の前で眺めているような気持ちになる。タネオはお気に入りのユウモア小説を手に取った。