第180期 #3

第二幕

 名前を呼ばれた小太りの老婆。受付の前で看護師とすれ違う。スローモーションのような展開。調子を合わせたように入口の扉が開く。ここまでが一連の流れ。
 マスクをした学童前の女の子と、同じくマスクをした母親。二人が同時に靴を脱ぎ出し、先に脱ぎ終わったのは女の子のほう。そのまま走って絵本の前にかけ寄って、勢い良くしゃがみ込んだ本棚の前。これは一瞬の流れ。この空間の中で女の子だけが動いているように見える。老婆の一歩一歩や、看護師の薄いピンクの皺、わたしの瞬き。全てが停止している時間である。
 停止からスローモーションになり、映像は通常に戻って、女の子は静かに絵本を開く。とても長い時間でもあり、とても短い時間でもある。無言で女の子の靴のかかとを揃える母親。母親から差し出された診察券。二つのバッグを提げた母親のうっ血した腕。老爺が咳払いをする。それにつられた学童前の女の子のくしゃみ。立て続けのかわいいくしゃみは小さく三回。あらあら、まぁまぁ。母親の嘆き。小さい方のバッグからティッシュを取り出し、女の子の鼻に当てる母親。カット。オッケー。午前の撮影終了。

 前から自転車が歩道を走ってきて、女性とぶつかった。撮影現場のクリニックを出てからすぐのことであった。ほんの数メートルの距離なのにわたしはその場に張りつき助けることができなかった。女性はうまくよけたようであったが、自転車の男性は派手に倒れた。男性のまわりには荷台にあった空き缶がばらまかれている。男性はろれつのまわらない怒鳴り声をあげる。わたしと自転車の男性と女性とをさえぎるものはない。ほんとにどうしようもないな、最低だよな、ケータイで弁当屋を探すふりなんかして、助ける一歩さえ出ずに。わたしの後ろを歩いていた人がかけより、女性と二人で倒れた自転車の男性を助け起こそうとしている。男性は酒に酔っているようである。自転車の男性はぶつくさ言いながら走り去っていく。男性がわたしの横をすり抜ける際、この傍観者が、と叫んだような気がした。
 それから全ての事象が入れ替わるまで、自転車が見えなくなるまで、女性と助けた人とが歩き見えなくなるまで、スライドパズルのように今まであったマスが別のマスにすり替わり、空気全てが入れ替わるまで、わたしは動けないままであった。



Copyright © 2017 岩西 健治 / 編集: 短編