第178期 #9

1992年の伊勢丹ロックウェル

 さきほど僕のなかに棲むカエルが久しぶりに左手からヌラっと現れて、僕をみて話そうとした。僕は急いでカエルにならなければいけない。ビタミン剤をとりに棚へ走った。

 錠剤を水で流しこみながら、カエルになるのも久しぶりのことだし、自分のなかにまだカエルがいたことをずっと忘れていた自分の変化を寂しく思った。

「カエルだからゲロゲロってしゃべるわけではないまんぞう」

 カエルになった僕はソファに沈みこみ、カエルとして自分に話しはじめたのだったが、僕の中に棲むカエルはこんなダジャレを言う奴だったろうか。

「カエルはかえらない、とはかぎらないまんぞう」

 カエルだって、オレはこんなヤワではない、ハードボイルドなカエルだったはずだ! と思っているにちがいない。それでもカエルの口からでてくるのは「オレはカフェオレ、オーレにはサトウ、アイツはアイス、アーネストサトウ。君の心にロックウェル」といった支離滅裂な言葉だった。しかしこれは僕自身の現実でもある。僕は下を向いた。
 
 気がつくとカエルは帰ってしまっていて、あと1時間もすれば僕はカエルとの再会も忘れてしまうだろう。メモ帳にアーネストサトウ、ノーマンロックウェル、それにナイマン象について調べること、と書いておいた。
 
 カエルがもっとハードボイルドで、僕が今より闘っていた頃、カエルは度々現れては識るべきこと、向かうべき道を示してくれたものである。カエルが裏切ったのか? いや、カエルを捨てたのは僕だ。

 それから1時間、半日と過ぎたがカエルの言葉は(といっても僕の声だが)生々しく残っている。以前「カエルがいったこと」とメモしたものは、覚醒したときに「なんだこれ」と捨ててしまったのだが、今は昔のように!当時のようにカエルがまだいることを感じている。それで僕は嬉しくて着替えてスターバックスへ行った。前にいるハーフっぽい女性がカフェミストをたのんでいた。女性はノーマンロックウェルの画集をもっていた!
 
「お姉さん、あのう持っている画集にノーマンロックウェルって書いてあるんですが、えーと、話をききたいっ」

女性は少し戸惑ったようであった。「アノー、砂糖、どうぞ」と言うとさらに困惑した。だが僕たちは同じテーブルに座ることになり、いざロックウェルについてきくと、彼女は遠い目をした。大きな瞳がさっきよりさらに大きくなった。そのときピアスに気がついた。ゾウだった。  



Copyright © 2017 宇加谷 研一郎 / 編集: 短編