第178期 #5
後ろから名前が聞こえてきて呼びとめられる。その名前に心当たりはなく、振り返って確認したそのニンゲンは知らないヒトだったが、対応の仕方は知っている。型どおりの挨拶をして、久しぶりだねと言って互いの手を合わせて、元気? いま何してるの? そう言えばあのヒトとはその後どうなってる?
少しだけ立ち話をして、笑顔で手を振って踵を返す。そしてすぐにその笑顔を消し、歩行を再開する。
道を進んでいくあいだに、何人かのニンゲンから名前を呼ばれる。呼びかけられる名前はそれぞれ異なっていて、やはり知らない名前だったが、対応の仕方は知っている。店先で買い物をする。会釈をしてから仕事の話を始める。挨拶だけして通り過ぎる。知らない顔で走って逃げる。
外出先での所用を済ませ、暗くなってから家に辿り着く。表札にはやはり見たことも聞いたこともない知らない名前が書かれているが、問題はない。
玄関先で靴を脱ぎ、部屋に入ってから帽子と鞄を取り、外出着に手をかける。上着を取り、シャツを脱ぎ、下着を取って、皮を脱ぐ。何枚か薄い皮を脱いだあと、厚手の皮の胸にぽかりと空いた穴から小さな珠を取り出す。黒光りのするその珠を指先で摘まみ、棚の上に置いてある瓶のなかに慎重に落とす。瓶のなかには培養液が入っており、珠はそのなかでころころと回りながら沈んでいき、底部でその動きを止める。
珠には名前がない。けれども、それはとても大事なものだ。珠がなければ皮の役割はなくなってしまう。皮を存続させるために、何よりも大切にすべきものなのだ。
そうして皮だけになった私は、コーヒーを入れてソファの上でくつろぐ。何ものにも代えがたい満ち足りた時間。何ものにも擬態せずにくつろげる空間。幸せ。
玄関のチャイムが鳴る。インタフォンから私を呼ぶ知らない名前が聞こえてくる。私はため息をついて立ち上がり、瓶のなかから濡れた珠を取り出す。そうしてそれを飲み込み、脱ぎ散らかした薄皮と服を手早く身に着け、はあい、と応えながら玄関先へ出て行く。
当然のごとく、皮には名前がない。生き延びるために捨てた。そうして、生きている。