第177期 #8

アプローチ

気が付いたら、窓の外は真っ暗で、家の中も静かだった。時計を見ると2時半を少し過ぎていた。
椅子から立ち上がって、乾いた喉を潤すためにキッチンに向かう。蛇口の水をコップに注いで飲み干すという行為を2回ほど繰り返したら、今度は用を足したくなった。
トイレのドアを開けると、いつもと違う感じがした。何が違うのかわからないまま、俺はトイレの便座を開けて用を足す。
便器の脇に男はきっと使用しないであろうものを見つけて、あぁ姐さんが来るのか、と思った。
尿を出し切って、そうか、姐さんが来るのか、と再び思いながら水を流して、「あっ」と声が漏れた。
しまった、掃除してから流せばよかった。目の前には「用を足したら、掃除しろ」と言わんばかりにトイレクリーナーが置いてあった。違和感の主はそれかと思う。

姐さんがこの家に出入りするようになって2年ぐらいだろうか。唯一カズキが姐さんを称賛していることは、ハヤトがトイレ掃除をするようになったことだ。とにかく気分屋で掃除なんてしない奴が、率先してトイレ掃除をするようになったのだ。
この家に出入りするようになった姐さんは、どうもトイレの臭いが我慢できなかったらしい。
男4人で暮らし始めたのはもう5年ぐらい前だったような気がする。
男4人で適当に生活をしていると、トイレに臭いが染みついてきた。日増しに強くなっていくその臭いに慣れてしまったのか、臭いに疎いから気が付かなかったのか、大して気にもしていなかった。たまにカズキが嫌そうな顔をしながらドアを開けていたのを考えると、姐さんには相当な臭いだったのだろう。トイレの前で入るか入らないかで迷っていたのを思い出す。
俺達が1週間ほど家を空けたときのことだ。帰ってきてトイレに入ったカズキが、悪臭が限りなく薄くなっていることに気付いた。後から知ったことだが、姐さんはその間、臭いを取るために徹底的にトイレ掃除をしたらしい。

それから、ハヤトはトイレ掃除をしている。トイレ掃除に目覚めたわけではない。そんなことで姐さんの気が惹けるのか甚だ疑問だが、本人は至って真面目に姐さんが掃除して得たトイレを守っている。
「人を好きになるってスゲーな」と呟いて、俺は尿が飛び散ったであろう壁、床、便器を拭いたクリーナーを流す。
手を洗いながら健気に掃除をするハヤトの姿を思い、その恋報われるといいな、と思って俺はトイレを後にした。



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