第177期 #7

スイッチ

 仕事を終えて家に帰り、シャワーを浴び、ベッドに入る。それが青年の日常であった。
 枕元の電灯を消そうと手をのばしかけて、青年はおや、とその動きをとめた。
 スイッチが、増えていた。
 寝室の奥側に、見慣れぬかたちのスイッチがひとつ、ぽつりとつけられていたのだった。こんなところに、スイッチがあっただろうか。
 第一、数が合わない。寝室の電気ならばドアのすぐ脇にスイッチがあるし、廊下の灯りなら、リビングのスイッチで間に合うはずだ。
 恐る恐る、青年はスイッチを押してみた。
 スイッチは軽く押すと静かにへこみ、指を離せば音もなくまたもとのかたちに戻った。室内を見まわしてみても、特に目につく変化はない。もしや、あらぬほうの電気がついたりしているのではないかと、リビングやトイレ、バスルーム、玄関先の常夜灯など、家中のあらゆる箇所を調べてまわったが、やはり何かが起きた形跡はなかった。
 翌朝になっても、スイッチはまだそこにあった。
 とりあえず、スイッチを押してみる。やはり、何も起こらない。
 仕事から帰ってきても、スイッチは寸分違わぬ位置にあった。今度こそはという期待を込めて、これまでよりも幾分長めに押してみる。またしても、何も起こらない。今日一日の鬱憤をぶつけるように、少しだけ乱暴に押してみた。もちろん、何も起こらない。
 その日から、日常のわずかなすき間を見つけてスイッチを押すのが習慣になった。スイッチを一回押すたびに、心に溜まった不平不満が着実に減っていくような快感があった。このスイッチが何のためにあるのか。そもそも、どういう理由でこの場所に突然現れたのか。青年にとって、そんなことはもうどうでもよくなっていた。

 ひとりの青年が屋根の上にのぼり、ぼんやりと空を見上げていた。そうして夜空を見上げながらその日一日の嫌なことをゆっくりと忘れていくのが青年にとって数少ない安らぎの時間なのだった。
 今夜はどうも、空が暗いようだ。曇っている、という風ではなく、本来あるべき明るさが昨日よりもほんの少しばかり失われているようだった。
 今日はちょっと、疲れすぎたのかもしれない。次の瞬間には夜空のわずかな異変など気にならなくなり、青年は静かに一日を終えたのだった。



Copyright © 2017 夏川龍治 / 編集: 短編