第171期 #8
静寂。母が亡くなった。なんとしてもこの夜の向こう側に行かなくてはならない。そう決めた。
ぶら下げたコードの輪を握って目を閉じる。外から聞き慣れた足音、鍵を開け一拍おいて回るノブ、ただいまといって小さく息をつく母。風呂場へ向かう母と居間へ向かう母とトイレに向かう母、重なりあった様々な年代の母たちが像を残しながら去ってゆく。やがてすべての残像は襖をすり抜けて寝室に収まった。入れ替わりに襖の隙間から這い出た黒い虫が囁く。この町で一番高い塔のてっぺんから月の輪をくぐるのさ。
外は夜。空にはくり抜いたような白い月。町を飾ったイルミネーションに色はない。町一番のマンションの、屋上の手すりの上から手を伸ばしても月に届く気配もない。軒にぶら下がった黒い鳥が囁いた。森の奥に井戸がある、そこから月に飛び込むのさ。
森の中。緞帳のような黒い闇。闇一枚隔てた向こうから蠅の囁く声がする。決して振り向いてはいけないよ。
やがて井戸に辿り着く。のぞき込むと月が水面に揺れている。けれども森の中は相変わらずの暗闇で月の光は降りてこない。井戸の底からカエルが囁く。月によく似た光なら線路の上を走っているよ。
踏切。線路から無数の首が生えていた。月が来るよ、もうすぐ来るよ。遮断機が降り、窓に月の光を湛えた列車が警報をかき消し闇をつんざいてやってきた。さあおいで。勇気を出して。こんな気味が悪いものはなんだか違うと思い直してその場を後にした。
月を求めてさまよって、闇の中に輝く光を見つけたと思ったが、どうやら自分の家の窓だった。
帰宅。ドアノブに母の手の温もり。家の中のどこかから携帯の震える音。短く三回、長く三回、母のアラームのパターン。音は寝室から響いている。目を開ける。首に掛けたコードを床に置く。襖を開ける。敷布団にはてらてらと光る胃液を鼻と口からどろりと溢れさせてこと切れた母がいる。遺体からやがて色鮮やかな腕が生えてきて携帯に伸びる。様々な年代の母が次々に立ち上がり、襖をすり抜けてゆく。かつてともにあった母、けれどともに歳を重ねてゆくことのかなわない母。布団の上に残された母は色を失い、ただそこにあるだけだった。
携帯は暗闇を白く切り抜いたまま震えている。待ち受けに青空。母の遺体をまたぐ。携帯を手に取る。アラームを切る。キーパッドを叩く。もしもし。「はい。火災ですか、救急ですか?」母が亡くなった。静寂。