第167期 #3

一週間後

叔父が亡くなった。母方の兄叔父で昭和6年8月15日生まれで86歳を前にして天寿を全うした。戦中戦後を生き抜き、幼い時は兄弟の食糧確保のため、関東、東北を駆け回り、成人してからは兄たちは見向きをしなかった家業の運送業を祖父から引き継ぎ、三男坊でありながら他の男兄弟よりも、子で唯一、親の面倒を見て、一家を支えたのである。子供二人、孫4人と子孫も残せた。全く裕福ではないが、その日その日を優雅に満喫しながら生きてこられた叔父であった。恰好をつけず、焼き鳥とコロッケを腹いっぱい食べるのが幸せと、酒も飲まず、とにかく満腹が至福の時で、祖父の家で夕食を共にすると午後4時過ぎが夕食の時間で食後銭湯へ、午後9時には早朝の仕事に合わせて寝るのである。仕事引退後は午前3時からパトロールの警官と一緒に近所を自転車で駆け回る生活。話好きで、誰とでも人懐っこく言葉を交わす、スピード違反でおまわりさんを煙に巻くのも得意技で、親が死にそうだと、寝ているものは立たす、立っているものは使う。仕事でも趣味でも思いっきり応援するから周りも自然と応援してくれる。私の初めての海外赴任時に成田へ見送りに来てくれて、海外経験のない上司に海外経験を聞いて、周りの社員から失笑を受けたこと。それから一時帰国して再度出発する際は叔母と海外旅行気分になれると、毎回、成田空港に足を運んでくれ見送りを受けたものでした。土産はいつも外国のスーパーの安いビスケットやチョコレートを楽しみにしてくれて質より量を愛する叔父でした。実家に寄ると近所の蕎麦屋のカツ丼が大好物でその食事風景は肉体労働者の食事を彷彿とするものでした。
亡くなる一週間前に母親と面会した時は寝たきりであったが、顔が見えないと不満を言い、聞こえる会話は正確に聞き分け、このまま長い寝たきり状態は困るなあという、心の声まで聞き取り、ちょうど一週間後、息を引き取ったのでした。
火葬場の収骨の際は、昭和一桁生まれでありながらかなりの骨太で骨壺に収納できるかかなり苦労をしました。今年は6月、7月肌寒い日が続いており、いつもの猛暑をまだ迎えていませんが、気候のいいうちに早く旅立ってくれた、最後まで家族思いの叔父でありました。
同じ昭和の時代を生き、60歳平成元年で旅立った父と昭和を過ぎて28年生きた叔父は近所の悪がきグループの一員でした。あの世でまた悪がきコンビ再結成できるでしょうか。



Copyright © 2016 Gene Yosh (吉田 仁) / 編集: 短編