第162期 #10

いつも大変お世話になっております。

 魂を売り飛ばし、ブラウスを手に入れた。純白のブラウスだった。もう引き返せないな、と思った。近所の洋品店で手に入れた。袋詰めしてもらったブラウスの紙袋を提げ、最寄りの駅から電車に乗った。目的の駅に着くとトイレで着替えた。タグは歯で噛み切り、来ていた服は紙袋に入れてトイレの個室に置いてきた。
 改札を出ると早速声をかけるものがあった。応対すると、そのまま車に乗るように促された。白い2モデル位前の軽自動車だった。白色が雨で汚れていた。中も気のきいた装飾などなく、灰色を基調とした、業務用のような車だった。とてもいい天気だった。
 「どんな気分ですか」
 5月中旬。開け放った窓からは涼しい草の匂いがした。
 「草の匂いがして、いい気持です」
 と感じたままの回答をした。

 こういった回答を求められているのではないと分かっていたが、こういった回答で済むのならいいなと思った。こういったことで生きていけるのならいいなとどこかでまだ思っていた。緑の景色の中で風に吹かれていたいと思っていた。しかしそうもいっていられなかった。
 車は高層ビルの前で止まる。間もなく人生で初めての労働が始まる。彼女は世界で最後のニートだった。労働のハードルはどんどん下がり、自分らしい働き方が礼賛され始めた。人々は金を使いたくて仕方なかったし、金を稼ぎたくて仕方なかった。ニートはその中で行き場を失った。やりがいや自己実現が手を伸ばせばすぐのところに近づいていた。あらゆる思いやりやつながり、絆が交換可能、視覚化可能なものになって、それぞれに価値がつけられ、労働をしないことのほうが難しくなった。
 52階でエレベーターが止まった。彼女はフロアの真ん中で一つ置かれた机についた。電話が鳴った。彼女は手を伸ばさない。パソコンの電源はつけっ放しになっており、彼女のメールアドレスが既に設定されていた。しばらくして固く握って膝に置いた手をやっとキーボードに乗せた。
 「いつも大変お世話になっております。」たたき始めると止まらなかった。「何卒よろしくお願いいたします。」で結んだメールのあて先は彼女の全く知らないものだった。それが何十、何百、何千もあった。送信ボタンを押すときには夕暮れが迫っていた。部屋の四隅、机の前に仕掛けられたカメラも、気にならなくなっていた。稼いだお金で、次買うブラウスは花柄のものにしようと思った。



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