第160期 #8
小鳥は空もはらむ。小鳥は羽ばたく羽を使う。小鳥は小鳥の姿をまとう。三羽の小鳥にはそれぞれ特徴はあるが、泳ぐ小鳥は見つかってはいない。まだ見つかっていないだけなのか、そもそも存在していないのかの記載もまた見つからない。
三人のアルツハイマーの会話。会話が成立したことに賛同する者はいないし、不成立をとがめる者もいない。お互いの言ったことを忘れてしまうことに既に戸惑いはない。
「わたしは福士蒼汰と言う八十五歳東洋大学卒業であります」
「じゃあ、八十七歳東洋大学卒業である僕は先輩面する」
「いいや、九十二歳東洋大学卒業である俺が先輩面する」
「先輩、先輩、弟さんとは仲良くさせていただいた」
「やっぱり君は僕の後輩か弟の後輩であるんじゃな」
「弟さんの葬儀以来で」
「何言っとる寛次郎はここにおるではないか」
アルツハイマーと高次脳機能障害とダウン症の会話。ダウン症の彼、彼女は頻繁に入れ替わるも先の三人よりもトゲはない。会話は噛み合わないが苦痛ではない。それを正そうとする者もいないから淡々と流れた先にやがてはみんな眠る。誰が先に眠るかは定かではなく記載もされてはいない。それぞれの靴の説明もないし、服の色の説明もない。ただ、ひとりは眼鏡をかけており、その眼鏡が黒縁であることは記載されている。しかし、そのひとりが三人のうちの誰だったかを知ろうと、黒縁の記載のあったであろうページを何度探してもそんな記載は見つからない。記憶を便りに別のページを探しても記載は見つからない。はなから、記載はなかったのであろうか。青年の思い込みが先走りしてしまっただけなのか。それでも、あきらめず黒縁の記載を探していると、靴の説明の代わりになる靴ひものそれぞれ違う色であることの説明は見つかった。だから、余計に黒縁の記載は見つけたくなる。読み過ごしてしまったのか、それとも、この先、記載は出てくるのか。はたまた、別の記載と混同して記憶しているだけなのか。
窓の外は午後の日差し。三人から少し離れた車いすの青年は、まぶたの動きだけで言葉を紡ぐ作業を延々と続ける。少しずつではあるが着実に言葉の途切れた先にある無と思われるものから逃れるために。記憶を消す。そしてはじめから。記憶を消す。またはじめからの記載。青年は青年に問う。本当は全編を知っているくせに。青年は青年に笑う。しかし、顔は動かない。青年の心は動いているのに体は動かない。