第160期 #1

傘を取りに来ただけだから

あいつはひどい男。
あいつが家に傘を取りに来る。先週泊まった時に忘れて帰ったのだ。今夜取り行くわ、と連絡があったから掃除機をかけて、お風呂に入って、薄く化粧をして待っていたら、8時過ぎにぴんぽんがひび割れそうな音を立てた。あいつは先週ぴんぽんを鳴らさなかった。(だってあの音びっくりするでしょ、だからおれはノック派なんだよ)なんだ結局適当なことを言っていたのか。チェーンと鍵を外してドアを開けるとあいつが笑顔で立っていた。伸びてきた左手に傘の柄を握らせてやると引ったくるようにして、じゃあね。しばらくその場で突っ立っているとまたドアが開いてあいつが顔を出し、おじゃまぁ、と中まで入り込んできた。「な、今ほんとに帰ったと思った」うん、と嘘をつくと大きな声で笑った。
上機嫌に知らない歌を歌いながらあいつは鞄を投げ捨て、あー疲れた、と床に寝転んだ。面白いぐらいまっすぐ仰向けで天井を見つめていた。「今動かないでね」私はたまらず言った。ん?と不思議そうにうなったけど、大人しくしていた。私はあいつの隣に寝転んで、床と、あいつの後頭部と、あいつの肩と、あいつの首筋のすき間を見つめた。先週もあいつはこうやって床に寝転んで、こうやってここにすき間を作ったのだ。それはとても美しい台形に見えた。美しい台形を通して本棚が見えた。それで、たまらない気持ちになったのだ。ねえ何見てんの?「台形」と答えると、あいつは不思議そうな顔をした。
台形から目を離さずに、とりとめのない話をした。流行りのお笑い芸人のこと。「レナードの朝」のこと。今日と明日の天気のこと。台形はあいつが笑うたびにいびつになったり三角形のようになったりした。私が「餃子食べたいな」と言うとあいつは「餃子か、餃子はおれも食べたい」と言った。素敵な言い回しだ。餃子はおれも食べたい。じゃあ今から王将にでもいこうかと提案すると、だめだよおれ家に夕飯の材料あるから、とあいつは笑った。泊まってく?なんて聞かなくてよかった、と思う。
台形の向こうの本棚が見えなくなったと思ったらあいつがこっちを向いた。「むらむらしちゃった」体全体をくっつけると、たしかに勃起していた。私は嬉しくなってあいつの名前を呼んだ。「なんだよ」笑いながら、3度キスをした。そこに触ろうとすると、やんわりとその手を退けられた。あいつは言う。
「今日は傘を取りに来ただけだから」
ひどい男。



Copyright © 2016 前田沙耶子 / 編集: 短編