第153期 #16

リヴァーオブサンド

 海振の季節が到来した。街の目抜き通りは買い物客でごった返していたが、烏達は旅の準備を始めた。
 漁帰りの船から生臭い香りが、季節風に乗って通りを上る。加えて誰彼構わず往来にゴミを捨てる土地である。腐りかけた残飯と混ざり合い、広場の空気は眼窩にしみ、それでいて腹の底をうずかせる。
 住人は薄汚れた服を干すのと同じ窓から生ゴミを放る。中身は魚や肉、近隣の森に生える香草、排泄物も混じる。人々は通りの端を歩く時、それらを被らぬよう注意せねばならない。
 海は、冬が近付くと干満差を広げる。月との距離、水温の変化、巨大魚の活動と多くの原因が唱えられたが、定説はまだない。
 水位は気付かぬ内に上がり、水揚げ場から市場、街中を浸して行く。
 残飯を当てに飛び回る烏も、海振の季節は奥地へと去る。そこは豊潤で果実に恵まれた土地と言われている。
 海水は満ち潮に至って道という道を埋め尽くし、地上階から生活臭が消える。但し、どこも海振を想定した造りなため生活に支障はない。
 潮の満ち引きもさることながら波の間隔が極端に狭まり、押し波と引き波の区別が殆どつかないのも冬の特徴である。水流が四方八方に乱れ、ぶつかり合い、大鎌のごとく飛沫を振るう。
 その光景の峻烈さから、冬の高潮を海振と呼ぶ。
 海振は汗と汚物に塗れた街路を隙間なく洗う。人々から生まれ落ちた泥濘はデッキブラシでも削ぎ落とせないが、潤沢な塩水は時間を掛けて丹念に分解し、引き潮と共に元あった場所へ運んで行く。時折、腐食し切った家の柱がへし折れる以外、音のない季節である。人々は海を恐れるように窓を閉ざし、小潮の一時だけ通りに忍び出て、囁きを交わす。
 烏達は冬の終わりと共に町へ戻る。
 毒ともしれぬゴミを漁るより、木の実に満ちていよう奥地で暮らした方が楽だろう。
 否、魚の匂いを嗅ぎ付けて渡り来るのだ。
 住人は冬の間、議論に花を咲かす。
 水が引くに連れ飛来する烏を、町の人々は繁栄の象徴と讃えてきた。動けない者がいれば誰とはなしに世話を焼き、通りに死体があれば丁重に火葬して、羽の一本を形見にと持ち帰る。
 海は町を侵し、通りからは人影が減り、烏も一羽また一羽と旅立つ。鳴き声や羽音が遠のき、住人の表情には加護を失った不安が満ちて行く。
 今年も間もなく潮は広場に達する。最後まで残った老烏は、心配げな少女の頬に一度だけ翼をすり寄せ、間もなく森の向こうへ飛び去った。



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