第151期 #18

安全ではないが、もういい

 東北で地震が起きて津波が発生して福島の原子力発電所が爆発し、どうも放射能が漏れだしてしまっているらしいことはなにとはなくみんなうすうす感づいてはいたのだが、とりあえずまあ、がんばろうということになって早三年。何年後かにはまさかのオリンピックも決まり、世界の皆様をおもてなしということにもなった。おもてなしとは他人の心を察するということで、すなわち言葉には出さずに相手をおもんぱかるということだけれど、そもそもこのおもんぱかりの間合の探りあいこそが言葉で事件の本質を議論せずにとりあえずまあ、がんばろうの標語になるという反復を繰り返して今、もう、この日本では何百年が経過したというのだろうか。
 第一、放射能についてよく分からない。学校や会社で習っていないことは自分で調べる必要が出てきてしまうから、もしこの放射能の話題を友人との会話に出して、相手が知らなかったら気まずくなるなとおもんぱかる。或いは知人から反原発デモ参加に誘われて、これを断ったら相手の熱意を曲げることになるから悪いなとおもんぱかる。
 大体なぜかつて戦争をしたのかもおもんぱかり過ぎて分からない。

 個人や生命というものを第一等の理念に置く人たちにとっては、おもんぱかりについて理解できないことがたくさんあるかもしれない。当然だろう。言葉がこんなに猥雑に蔓延するまでは、他人と自分の心がこんなにも違っていたとは知り得なかった。個人という概念は相手と自分が違うという事実に立脚している。生命ですら言葉で創作してやらなければ尊さを獲得し得ない。言葉で考える人たちにはおもんぱかりは到底了解できない。おもんぱかりとは、おもんぱかることで口をつぐんできた人たちの反言葉的芸術だ。
 そして、おもんぱかりの人たちは世界が終ることすら想像し得ない。世界の終わりという目の前にはない概念は、言葉でのみ到達し得るからだ。
 世界が終ることすら分からない。終わりがないから始まりもない。歴史もない。未来もない。現在しかない。

 おもんぱかりの人たちは折り重なりあうおもんぱかりの積層が作りだした言葉の空白地帯の中で生きながらえている。けれど、命の尊さは知らずとも死への不安だけは持っている。いきものだから。その慰みに、その趣味の一環として、怯えながら、いつか幸せに救済されるおとぎ話を自画自賛的に飽きることなく繰りかえすのが、好きだ。終わりで、これでもういい。



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