第147期 #12

違う人生

 結婚した時は他人の家から意味を泥棒してきたような気になった。ぜんぜん好きでもない女性から恋愛感情を持たれ、付き合い、入籍しただけ。挨拶、決め事、それら雑事が自分の意志外で実行され、いつのまにか奥さんと新しい家に住んでいた。
「おはよう」
 朝、奥さんが声を掛けてくる。奥さんのために働き、互いの親に孫を見せるために性行為をして、社会の一部然として過ごす。表面的な生活の目的はたくさんできたが内実は枯渇していて盗人の罪人の心持。
 奥さんの拵えた朝食を平らげて背広を着こみ出社しようとすると、玄関に姿をうすら透けさせた女がわんわん泣いていた。
 奥さんが言った。
「まだ私達を許していない」
「そうだね」
 半透明の女は私の昔の同級生だった。交際はしなかったが私に好意を持っていて、その感情を持ちながら病死した。以来私の住む場所にいて私だけに見えるようになった。つまり亡霊だ。
 亡霊は私と奥さんが知り合った時から奥さんの前にも姿を現すようになった。奥さんは、私が独身時代に住んでいた賃貸の部屋に訪れた時に亡霊であるこの女を見ても動じなかった。ぜんぜん好きでもないが、こじつけるならそれが奥さんと結婚した理由かもしれない。
 亡霊は手に包丁を持っていた。晒し木綿で刃をくるんでいる。いつも持っている。私を殺すためだと推測している。泣くだけで言葉を話さないので真実は分からない。
 亡霊の瞳は澱んでいる。指先はこちばっている。亡霊は昔はきれいだった。今では肉が落ち骨格の浮きでた細い肩に憐憫を誘う生身にはない魅惑があった。亡霊が病気で死なない違う人生であれば彼女と一緒になったかもしれない。
「行ってきます」
 亡霊は玄関に現れる日常風景だった。家を出てドアの閉じ際、目線を家の奥へ向けると奥さんが笑っていて、その向こうで亡霊が涙を流している。
 私が家を留守にしている時にも亡霊は家にいるらしい。そういう時に奥さんは亡霊に教えているらしい。
「彼は私のことを愛している」
「彼はそんなに良い人じゃないあなたにはふさわしくない」
「成仏した方が身のため」
 亡霊がいつも泣いているのは奥さんの酷な説教が原因ではないだろうか。結婚する前までは泣いていなかった。包丁は持っていたが。
 奥さんのことはぜんぜん好きではなかったが、私のことを守ろうとする気持は有難かった。夜、小用で寝室から出た時などは玄関まで行って亡霊の涙をふくことにしている。



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