第146期 #16
片手に収まった本が深い黄昏に濡れている。鬼灯色の夕陽が空を溶かし、底から夜を引き上げる。今日は朝から晴れていた。今夜は歌声がよく響くだろう。
『本謡』の夜は子どものように心が跳ねる。これぞという本をつれて、いそいそと月のない空の下を歩く。星明かりだけの広場に同志が集まっていた。
「昔読んだ本をもう一度読んでみたの」
「今回はちょっと自信ないなあ」
「あら、話題書ね。どうだった?」
あちこちで本の話に花が咲いている。『本謡』は自分と本の宴なのだ。
大事に読まれその内容を深く理解された本は、新月の夜、もち主のために歌いだす。人の心に響いたぶんだけ朗々と歌う。童話が、恋愛小説が、戦記物が、料理本まで高らかに歌い上げる。
前回のミステリは実にいい声で歌ってくれた。トリックの妙、意外な犯人にすっかり魅了されたからだ。今回も、と意気揚々とつれてきた本にそっと手をおく。
空は磨き上げられた黒曜石のような色と艶を放っている。触れれば絹か天鵞絨のような手ざわりがするに違いない。
「こんばんは小西くん」
「こんばんは有馬先生。いい夜ですね」
高校時代の恩師とは、卒業後も本謡の同志として交流が続いている。在学中はわからなかったが有馬先生は存外負けず嫌いだった。
「今夜は私のほうがよく歌うと思いますよ」
「僕だって負けませんよ」
本と自分がどれだけ密に心を通わせたか、それを自慢できる場でもあるので読書家たちはとっておきの一冊を携えてやってくる。有馬先生と視線を合わせてにやりとしたとき、広場に高く低く声が重なりだした。本謡が始まった。本が歌いだしたのだ。
朗らかな声、澄んだ声、太く穏やかな声、子守唄のようなその柔らかさ。本の声は夜空の星をつなぎ、僕たちに降り注ぐようだ。
有馬先生が小振りの辞書の表紙を何度か撫でた。辞書はよく響くテノールで豊かに歌いだす。辞書とは先生らしい。得意げな顔が悪戯っ子のようだ。僕もつれてきたビジネス書をいそいそと取りだす。つるりとした表紙をそうっと撫でると、堅苦しいタイトルの本は掠れた声でつまらなそうにもごもごと歌い、そのうち欠伸をして黙ってしまった。
「ダメだよ小西くん。恰好つけたビジネス書なんかじゃ」
僕の見栄っ張りを見抜いた有馬先生は茶目っ気たっぷりに目を細めた。
照れ笑いしながら、次は娘と絵本をつれてこようと思った。彼女が瞳を輝かせるあの本は、どんな声で歌うだろうか。