第141期 #14

ココロ

 大正か明治か昭和の話で、山奥の農村に住んでいた一人の子供が親に連れられ初めて海を臨んでから帰ってきた時、村の子供達が「海とはなんぼもんの大きさじゃったかや」と訊いたので、その子供は「向こうが見えんぐらいじゃった」と答えたが、皆は顔を見合わせると、それは嘘じゃな嘘じゃなと云って信じなかったという話を、昔学校の教科書か何かで読んだ覚えがある。
 その事を彼女に話してみると、あぁ私もその話には覚えがある、ちょっと共感できる話、でも何の話か忘れちゃったわと、彼女は答えた。見た事がない子には、信じられなかったのかもしれないわねとも、彼女は云った。
 今年は二人でたくさんの映画を観に行った。僕の誕生日も映画を観に行った。映画の感想に、僕は過ぎ去った世界だと云った。彼女は心の深さが芯になっていると表した。その帰りに、お互いに自分の心の形をしたブレスレットを買って相手にプレゼントした。
 街もネオンに彩られる師走に入った頃に事件が起きた。あの日僕がプレゼントしたブレスレットがどこかに行ってしまったと彼女は云った。
 大切な思い出の一つだったので僕は怒った。どこか怒っている自分を客観的に観ている自分を感じたが、その自分もまた行く所まで行ってしまえばと、怒りに任せて彼女の頬を叩いた。そして「クリスマスの日までに見つけて、大学の、俺がお前に告白をしたあのベンチの所に来るんだぞ」と吐き捨てる様に云うと、僕は彼女の前を去った。
 クリスマスから四日間、僕は彼女に告げずにサークルで東北へスキーに出掛けた。あの約束は僕の方からすっぽかした。それで彼女が別れたくなれば別れればいい。その程度の愛だったという事だと、僕は彼女を尻目に出て行った。
 男幾人女幾人。旅行の中で今まで出さなかった一面を意識してか出す子も居た。しかし遊ぶ気にはなれなかった。
 年明け初めの授業に出席した。雪焼けの顔をいくつも並べて席に座っていると、年末も研究室に通っていたクラスメイトが隣に座ってきた。
「お前がスキーに行ってる間、お前の彼女、俺が前を通る度ずっとあのベンチに座っていたんだぜ。俺もずっと見続けてた訳じゃないから分かんないけど、まるで一歩も動かずにじっと待ってるみたいだった」と僕の顔に向かって云ってきた。
「そんなまさか」と、僕はつい言葉を発した。それを見詰める様に彼女の心の形をしたブレスレットは、僕の手から消えずに留まっていた。



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