第141期 #15

大垣城と結びの地

 大垣城公園と奥の細道結びの地、大垣芭蕉庵へ行って来た。
 大垣城は別名大柿城、麋城(びじょう)、巨鹿城(きょろくじょう)と言い、1500(明応9)年竹腰(たけのこし)尚綱が牛屋郷に築いたとも、1535年(天文4年)宮川安定が築いたとも言われる。牛屋郷は岐阜県安八郡牛屋村大尻(大尻は現在の大垣)。元々大垣市は安八郡大垣町。1918年(大正7年)4月1日に市制が施行された。
 その後、氏家氏、伊藤氏によって改築が加えられ、1613年(慶長18年)には松平忠良が天守を改修した。戸田氏大垣藩初代藩主となった戸田氏鉄の頃には完成形を得て居たようだ。明治時代に出された廃城令(1873年(明治6年)1月14日の太政官達)でも廃城を免れ1936年(昭和11年)には国宝(旧国宝)に指定されたが、1945年7月29日に大垣空襲によって天守や民櫓などが焼失した
 戦後再建されたが、やはり資料などを使い、当時のものを復元するように努めた様だ。戸田氏鉄の像が大垣公園にはあった。騎馬像で軍配を手に持って勇ましい。よろいかぶとの甲冑一式を着込み、勇ましく頼もしい感じがする。戸田氏大垣藩初代藩主の氏鉄の遺徳が偲ばれる。
 天主の近くには麋城(びじょう)の滝があり、そんなに大きくは無いが、「瀧」と言う明治以降夏の季語となった、「滝」一般に魅せられるかの様に歩みをそちらに向けると、涸れた滝では無く水がちゃんと上から流れて居た。

滝の上に水現れて落ちにけり     後藤夜半
 
 こんな俳句を思い出す。芝生広場では、既に茶色味を帯びたしろつめくさが疎らに生えて居た。

蝶去るや葉とぢて眠るうまごやし   杉田久女

 うまごやしはしろつめくさの事。幼児が数名水と戯れて居た。ミスト状に水が常時出て居て涼を誘って居る。子供は遊ぶのが仕事の様だ。

 大垣市役所などを超えて、水門川に沿ってむすびの地を目指した。芭蕉と曽良の奥の細道の行脚。曽良は既に大垣に着く前に離脱して居たようだが(石川県加賀市の全昌寺で病を得た曽良は先に伊勢長島へ向かったため大垣には同行しなかった)。

 水門川には鯉の数が少ないようだが、僅かながら泳いで居る鯉は大きい。野生の黒い鯉から、鑑賞用の錦鯉見たいな物までかなりの大きさであった。

緋鯉見て帰りの道はあっと言う間
葉桜の時期過ぎ行けり写真撮る
写真撮る前に抹茶のアイスかな
青苔や水垂直に流れ続け      ロロ作



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