第140期 #13

蕪村

俳人与謝蕪村は画業でも有名な人であった。安政7年(1778年)蕪村63歳の頃から「謝寅(しゃいん)」の号を用い始める。画号であるが、俳句を含めて蕪村の「謝寅(しゃいん)」時代と言って良かろう。次のような句がある
痩脛(やせはぎ)や病(やまひ)より立つ鶴寒し 謝寅(しゃいん)
 蕪村門であった吉分大魯(よしわけたいろ)が安政7年(1778年)11月13日(旧暦)に亡くなった。その大魯(たいろ)に宛てた見舞いの一句である。痩せ衰えた鶴だ。大魯(たいろ)の痩せて脛の細くなった事を病の鶴と重ね合わせて居る。
 吉分大魯(よしわけたいろ)は蕪村門の奇才。阿波(あわ)徳島藩士。本姓今田文左衛門だった人だが仕事を止めて京都に出て俳諧師となった。高井几董とは一生交遊があったらしい。
泣(なき)に来て花に隠るゝ思ひかな 謝寅
 蕪村の大魯(たいろ)追悼吟である。蕪村は大魯の才能を高く買って居た。悲嘆にくれる心情を物に託して詠む。「花に隠るる思ひ」なのである。
狐啼(ない)てなの花寒き夕べ哉 謝寅(しゃいん)
 安永8年(1779年)の句である。季語は「なの花」らしい。「狐」も冬の季語だが、ここでは「なの花」の春なのであろう。蕪村には「なの花」を詠んだ句がたくさんある。「なの花や月は東に日は西に」・「菜の花や遠山鳥の尾上
まで」・「なの花や昼一しきり海の音」・「菜の花や鯨もよらず海くれぬ」。最後の句も「鯨」が冬の季語だがこの句では季語は「菜の花」で春の句。
松島で古人となる歟(か)年の暮 謝寅
蕪村の亡くなる前年天明2年(1783年)の句である。同じ年に
松島で死ぬ人もあり冬籠(ふゆごもり) 謝寅(しゃいん)
の句もある。風流のメッカ松島に対する憧れであろうか。

 以上のように私は図書館で蕪村探求に勤しんだ訳であるが、蕪村の何が分かったのか、それは分からないのである。 



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