第137期 #17

老人と海

 坂下老人の邸宅は人里離れた深い山の中にある。それにも関わらず、不思議なことに彼の家はいつ訪れても海の音が聞こえるのだった。彼の家をはじめて訪れた時、僕が驚いてそのことを訊けば彼は得意気にこう話した。
「こいつはとっておきの細工なのさ」
 しかし、それはオーディオか何かですかと僕が愚直に尋ねれば、そんな子ども騙しじゃあないと彼は不機嫌になるので、それ以来その真相を知ることはなかった。

 坂下老人と出会ったのは大学病院のロビーで、年末の混み入った病院で暇を持て余して世間話を交わしたのがきっかけだった。僕が海洋学を専攻していると話すと彼は僕を気に入ったらしく、それ以来度々彼の邸宅へと招いてくれるようになった。親族のいない彼は僕をまるで本物の息子のように良く扱ってくれた。
 坂下老人は戦時中は海軍で駆逐艦の乗組員を勤めた人で、戦後も商船に長く乗船していたと言う。だからこそ、彼が海の音を求めるのは当たり前なのだけれど、それなら何故本物の海の近くに住まないのか。そのことを僕が訊いても、彼はニヤニヤするばかりで答えてはくれない。まったく、どうにも奇妙な老人であった。

 坂下老人が死んだのは春のことだった。彼の葬式は仲の良い少数の友人たちの下、彼の邸宅で和やかに親密に営まれた。しかし、その日の彼の邸宅にはあの海の音が聞こえない。僕がそのことを海軍時代の彼の友人に尋ねれば、その友人はひそひそと僕に耳打ちをする。
「あいつの胸に、耳を当ててみればいい」
 そう言われ、僕は静かに眠る坂下老人の遺体のもとへと歩み寄り、その行為に少し緊張しながら彼の冷たい胸にそっと耳を当てた。すると微かにではあるけれど坂下老人の胸の奥からは懐かしいあの波の音や海鳥たちの鳴き声が聞こえてくるのだった。それは穏やかな凪の海の風景を僕に思わせた。
「海の男はみんなこうやって海を抱えて生きているってわけだな」
 しかしながら、試しにその友人の胸にも耳を当てれば何の音も聞こえないので僕が反論すればケラケラと彼は笑い出す。何と無く僕は騙されたような気持ちになったのだけれど、それはそれでも良いように思った。

 坂下老人の墓は彼が生まれ育った小さな島の小高い丘の上に作られた。そこではもちろん、僕があの日聞いた海の音によく似た本物の海の音を聞くことが出来る。
 それでも、今となってもどうしても僕は、彼の墓石に耳を当てる癖が抜けないのだけれども。



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