第136期 #9
梵字のように飛び立ったというがいいか、舞い落ちたというがいいか。
籬をぬけて、屋根さえ越えて、露でしめった桜の花片が腿をかすめて、ようやく我が身、地を発っていることに気がつく。煤まじりの細め雪こそ、本所の風物。……誰がいったか、颯と寒風。真冬の空の曇りの濃淡をひしと味わい昏れているうち、とうにことばは音とあいなる。台詞は流され、手水場で花咲く談義の声がみな吸い、寝くたれのあさがおにゃ鉄砲水。打ちつけるように女房衆、笑う。
梯子のてっぺんに腰を据え、目をくるりとさせているうち、徐々に昔を忘れていくようだった。半鐘が鳴っているがなんの報せだか、葉陰に伸びる長屋を出てきた、すらりとした坊主とそのあとにつく娘に見入ったが、はてどこの芸姑だったか。
解せぬが哀れ、されど瑣末にも思い起こせぬ。
朱地に映える金銀糸で、桜と鯉と几帳を縫った鹿子絞りの振袖も、面影こそあれ思い出せない。ちょい、ちょい。見返り賜りたくて囀るも、さながら夜鷹、年増の呼び声。せめて草笛めく軽やかな声は出せないものか。
近う寄れ、近う寄れ、節をつけて詠う声。
夕べのことであるような、はるか昔であるような。行灯を消すやわい吐息は感じだせるが、面差しは宵の暗がりに溶けて見えない。
ちょいちょい、ちょいちょい。
哀れさ弥が上にも、懲りずに囀れど時遠く心わびしく。
あしゆびを梯子から離したとたん襲い来る烈風。娘の唄に傾きぬ耳孔に突き刺さる、霜溶けてなお凛々とした風で、くるりよく回る景色もじきにか細く、ついには遠く、婀娜めく容色その幻影も、燃やして濡れた比翼の先で雫となりしたたる。
――葬礼の片寄せてゆく鷹野かな
冷気が肺臓に吹きこんできて目がさめた。擦半鐘と人の声やかましく、はだけた羽織をはらって外にでる。ばっと軒先に赤火が起ったかと思えば、一変、夕映えの路地。向こうでは、裾に桜と鯉を泳がせた朱の振袖が嫋やかに去る。いずくから笛の音、拳ほどの一羽の灰鷹が凄い勢いで横切る。灰色斑のつぶては丸帯のうえを滑って、娘のうなじに嘴を刺す。
墨を散らしたかのように黒々とにじむ視野を睨めれば、凍みた蟀谷が汗ばんだ。空つんざける悲鳴聞きつつ、自ずから背負う火柱で、今宵だれの葬式かようやっと思い出す。黒無地羽二重は影もなく、娘は振袖、参ってはくれなんだ。
軒からしたたる霜解けの水、煤だけ仰ぎ呑んで思うは、はて。
どこの芸姑だったか。