第136期 #8
紗江美は今日も座れなかった。朝はいつも、出勤時間をずらして少し早めの電車に乗る。それでも座れるほどではない。帰りはたいてい残業になり、少しの残業であればラッシュに遭わなくてすむ。でも繁忙期に入れば毎日終電で、そうなるとやはり混んでいるのである。
「ただいま」
リビングの電気をつけて冷蔵庫から取り出したハンバーグをレンジで温める。ハンバーグは最近夫がはまっている料理である。まずくはないが、こう何度も食べていると飽き飽きしてくる。
修治と結婚して四年。仕事がうまくなかったのだろう、だんだん愚痴っぽくなり、一年前にはとうとう会社を首になった。子どももないのに、「専業主夫になる」といって職を探そうともせず、専ら家事の上達を趣味のように楽しんでいるのだった。
物音で起き出した修治は、ソファでぼんやりとテレビを見ている紗江美の横に座った。肩をガツンとぶつけてくる。修治は体格のよい男である。結婚前には度々、昔はよくけんかしたもんだなんて武勇伝を聞かされた。「拳と拳で分かりあう」などと真顔でいう。その体格で肩をぶつけられると痛いのである。
紗江美はとりあえず黙ってテレビを見ていた。こちらからも肩をぶつけたり、おでこを小突いたり、お互いにじゃれあうことを修治は望んでいる。だが紗江美は疲れていた。会社で怒鳴られ、客先で冷や汗をかき、ようやく帰ってきたのだ。修治には遊びでも華奢な紗江美にはダメージが蓄積する。苦痛であるのは厳然たる事実である。いちいち付き合ってなどいられない。
修治は紗江美の肩を叩いていたが、反応がないことに苛立ち、徐々にその力を強くした。そのうち止めるだろうと思っていた紗江美も平然と無視してはいられなくなった。
肩を押さえて身を固くした紗江美を、修治は殴り続けた。これではじゃれあうどころではない。紗江美は立ち上がり、寝室とキッチンの方に向かった。修治は、「おい逃げるのか」と後を追ってきた。紗江美は追い詰められた。
「何だ、腕力で敵わないからってそんなもの持ち出すのか」
包丁を握った紗江美の両手は震えていた。防衛本能で息が詰まった。振り回した包丁の刃が修治の左腕をかすめ、血が舞った。
修治はふんと鼻を鳴らして玄関を出ていった。冷却期間を置いたら戻ってくるつもりだろう。それでいい。紗江美は冷却期間が欲しかった。ただそれだけなのだ。疲れがどっと出て紗江美はその場にへたり込んだ。