第128期 #7

春の夜

 春の夜は死んでしまいたくなる。
 道端に飲み潰れた学生が数人、折り重なるようにして眠っていた。赤子のように安らかな表情を浮かべ、吐瀉物まみれで眠る彼らの上に、桜の花弁が舞い落ちてはゆっくりと積もっていく。やがて、花弁は彼らを飲み込むのかもしれない。あとには彼らの姿は跡形もなく消えてしまうのかもしれない。春の夜はどこかにそんな見えない刃を潜めて、こちらに襲い掛かる機会を、虎視眈々と舌舐めずりしながら窺っているように思えてならない。
 それは年老いた語り部の皮を被って毎晩私たちを待ち構えている。春になって、長い冬の眠りから目覚めた記憶たちが一斉に穴倉から這い出して来ると、語り部は手際良くそれを一つ一つ丁寧に捕まえては、夜になる度に嗄れたその声でゆっくりと私に語り始める。それはいつか誰かの手を繋いだ記憶だったり、誰かの手を離した記憶だったりするのだけれど、語り部の純朴な語り口で語られるその記憶は、まるで温かなおとぎ話のように感じられて、私はついウトウトと眠りに落ちそうになる。そんな私を見て、語り部は優しく言う。眠ってしまっても良いのだ、と。でも、私は眠ることは出来ない。何故なら、眠ってしまえば二度と目覚めることはないだろうから。
 春が始まりでも終わりでもなくなることほど、残酷なことはない、と私は思う。季節が意味を持つのは、季節の流れに従って生きている人間だけで、今の私にとっては季節などはただの通過点に過ぎない。どこにでも行けるからこそ、どこにも行けないような気分になる。行くべき場所を持たない人間にとって、それは圧倒的な事実で、結局のところ私はいつまで経ってもこの春の夜から抜け出すことが出来ない。いつかの遠い思い出に浸りながら、可能性を食い潰して生きていくことしか出来ない。語り部がまた笑い掛ける。眠ってしまっても良いのだ、と。でも、やっぱり眠るわけにはいかない。今にも何かが起こりそうな漠然とした期待だけはどこかにあって、それはまるで夜更かしをする子どものような言い分で、思わず私は苦笑してしまう。それが、私にとっての春の夜だった。
 眠りから覚めた学生たちが、何が起こったのかわからないといった様子でぼんやりと辺りを見回していた。先程よりもその人数が減った気がするのだけれど、もちろんそれは定かではない。
 彼らの無邪気な笑い声を聞きながら、私は一人、ふらふらと春の夜道を家へと帰った。



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