第127期 #4

八百万にして五千円の妹

 どぶ川を眺めてぼんやりしていると、背後に車の止まる音がして、男の声が続いた。
「お兄さん、お兄さん」
 振り向くと、髪を短く刈った人の良さそうな青年が、黒い車の助手席側の窓から首を突き出していた。私は車には明るくないが、二十年以上前の型の国産車だろうと思った。
「なんです」
「この眼鏡、かけると妹が見えるんですよ。どうですか、五千円」
「もらいましょう」
 私は一万円札を差し出した。
「毎度。はい、お釣り」
 黒いプラスチックの眼鏡入れと五千円札を受け取った。慣れた手つきのようだった。
 混じりっ気のない喜びの表明、妹好きが妹の話をするときの顔が、たちまち遠ざかっていった。
 運転手の顔は見ずじまいだった。
 家に帰って、眼鏡入れを開けた。濡れたように輝き、しっとりした感触を指先に伝える、黒縁のプラスチックフレーム。レンズに度は入っていない、伊達眼鏡だ。
 かけてみたが、妹は見えなかった。私には妹はいない。生き別れの妹が云云という事情もない。
 英国秘密情報部の略称はSISだから、あるいはそれを指しているのかもしれないと懸念して買ったのだが、どこを調べても、情報が隠されている様子はなかった。
 このままではいけないと思った。青年をただの詐欺師にしてしまう。そんな悲しい五七五は、私の望むところではなかった。

 眼鏡をかけて、椅子に深く腰をかけて、天井を見上げて、妹の輪郭を描くことから始めたわけだが、ここでいう輪郭というのは、一個の人格のそれ、外見であり、つまり眼鏡をかけた制服姿の妹が私の眼前におぼろげに構成されて、すると次に必要なのは、輪郭に重みを与える、性格であって、繊細な妄想が要求される難しい過程なのだが、しかし妹が一人とこの段階で決めつけてしまうのは拙速のそしりを免れず、これはあくまでも妹のひとつの可能性であると自分に言い聞かせる必要があり、またそうすることでこの妹の生き方が肯定されるという副作用があることも忘れてはならない、と考えているうちに、いよいよ妹も黙ってはいなくて、やだ、また一人でなんかブツブツ言ってる……とぼやいたから、これはもうしめたもので、今日もツンツンしてやがる、と軽口を叩こうものなら、はいはい、と平坦な口調に冷ややかな目、そして詐欺師は予言者に、世界は少し優しい場所に変わった。
 翌朝にいれたインスタントコーヒーは、ひどく苦かった。妹が少し、部屋に残っていたのだろう。



Copyright © 2013 戦場ガ原蛇足ノ助 / 編集: 短編