第126期 #7

ツメクサ

 窮屈めの靴を履きながら買物に行った。見切り特価ごま鯖にすぐさま調理するんだと挑まれるような気がして買った。帰宅すると彼が風車のように腕を回して彼女をぬいぐるみで叩いていた。
 彼の怒りの主意は
「なぜ時間通りに昼食を作らなかったか」
 だった。
 彼は決め事にうるさい。決定をないがしろにすると最初彼は心臓から血液がごっそり抜き取られたかのようにおびえ、それから引付を起こした赤ちゃんのように激怒する。
 彼女はごめんえごめんえと床に顔を伏せて寝ころがり、両手両足を伸ばして「し」の字みたい。
 彼の怒りは自傷癖みたい。他人に対して憤り、次に他人を許せない自分に哀しみ、行き場をなくして誰も傷つけられず自爆する。

 私と、彼と、彼女郊外の古い昭和住宅で賃貸生活。
 働かない彼の代わりに私と彼女が社会人生活。平日平穏無事に過ぎ、週末に死ぬほど酒を飲んだ彼に殴られる。日曜日の午後にパンを焼き、彼に振舞う。彼女は彼が好きだった。彼は彼女が特に好きじゃなかったが、一人で生きていく世故がなかった。
 だから私が彼岸と此岸を渡すように居座って、彼女が彼のつめたさに泣いたりすれば、例えば自分を昔話に出てくる不幸な娘のように考えたらいいのだと諭す。
 パンに鯖カレーをひたして一口、彼が言った。
「まずい」
 私は余ったカレーを冷凍庫へ。

 私たちは三十歳だった。週末に私と彼女とで地方へ行った。
 彼女の恋人という割振で私は彼女の実家を訪ねた。
 両親らに私が言った。
「はじめまして。パンを焼いてきました。どうぞ」
「ご自分で焼いたのですか?」
「はい」
「すごい」
 彼女と共作した奴隷パンを彼女の両親らは頬ばり、おいしいと言った。
 恋人と一緒に生活していると半ばの嘘を家に伝えていた彼女は、恋人を連れて来いと無理強いされて、揚句私に頼みこんだ。
 彼女の家で、私は彼女と二人きりの部屋。
 安全な場所で安全な相手からどやされている最中は何度も幸福が訪れたのに、安全な場所で安全な相手からやさしくされると、案外不幸なものだと思った。
 彼女が口走った。
「こういうのもアリかもね」
 違うだろ。おまえは一生あの暮らしの中で死んでゆく。

 アジトめく彼との居場所に帰ると、彼はまずいと言っていたカレーを解凍して食べていた。
 彼は彼女を叩いた。理由は分からない。私は、味のしないガムをまたもらえたような気持になって快適だった。無味乾燥だがこのガムは新しい。



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