第126期 #8
僕にとって悪事とは大抵、全くそれと気づかずに犯すものか、その重みを強く自覚するものかの二つに一つだった。どちらがより深い罪なのだろう、と、またしてもそんなことを考えながら、僕はぼんやり小野の顔を眺めている。
小野は張り詰めた眼差しを僕に向けている。その目は僕のことを知っていた。開け放った窓からカーテンを揺らして風が入ってくる。カツラの甘い香り。それが僕たちを撫でて、小奇麗な涼しさを肌に覚えさせた。
なびいて顔にまとわりついた長い髪を、彼女は払わなかった。身なりに気が回らないほど彼女の心情は切迫しているのだろうか……いや違う、次に動くのは僕の番だと決め込んで、息をじっと潜めているのだ――そう感じとって、僕はようやく話し始めた。
「言い訳はしないが、聞いてほしい。僕は君に何か不安を持ったわけじゃない」
罪の意識は既に僕の中で何度も咀嚼されていた。そして頭の中では、既に浮気の顛末とそれに対する自分の考えが、何度も推敲された形で原稿用紙を埋めていた。
その女は気が狂ったような人間だった。僕が振り向かなければ死ぬと言って、目の前で手首を切った。やむなく女に構い始めてから一年、僕は女の虜になっていた。中毒症状みたいなものだ。そう、
「初めのうちに君を含めた周囲に相談しなかったことが、僕の最大の失敗だ。動揺を与えたくなかったから、僕一人で解決してみせるつもりだったんだ。でもそれは結局、僕に対する君たちの印象が揺らぐのが怖いだけの、僕の甘えだった。挙句、僕は君の知らないうちに、知らないことにつけ込んでしまった。何をしたかは、君が嗅ぎつけた通りだよ。それが悪い事だというのは、初めから分かっていたんだ。分かっていながら、ここまで来てしまったんだ」
僕は頭の中の原稿を読み上げた。それは確かに僕の本心を取りまとめたことで、罪悪感の吐露も真実だった。けれども、喋っているうちに僕はなんだか可笑しい気分になっていた。作文を発表する恥ずかしさ。小野は切実な瞳で身じろぎもせず僕に注意を向けている。しかし彼女が向けている「僕」はどこにいるのだろう。今もなお様々な迷いと感情が渦巻いている僕そのものだろうか。原稿用紙にまとめ上げられた「僕」だというのなら、とてもおかしな話だ。
甘い残り香を吸い、それがあの女のものと酷く似ていることに気がついた。どうしたのだろう、誠意を携えていたはずの僕はだしぬけに笑いだす。