第12期 #30

シンク

 電球の切れかけた薄暗い台所のシンクに無造作に置かれた圧力鍋の蔭で一匹の蝿が死んでいた。おそらくそれはイエバエで、いやというか、イエバエくらいしか蝿の名前を知らないのでそう思うだけで、実際のところはベンガルオオバエとかそんな種類なのかもしれないないし、さらにいうなら蝿に似た全く種類の異なる虫なのかもしれなかった。そう思うと途端に死んでいるというのもどこかあやしいように思え、指でちょいとつついてみたのだけど、何の反応もなく、死んでいるということだけは確かなことだといってしまっていいように思えた。
 僕はシンクの下から錆びついた長包丁を取り出すとその蝿を、いや正確には蝿のように思える虫をまな板の上に乗せ、ゆっくりと刃を引いた。蝿のように思える虫は、いやもうめんどくさいので蝿ということにしよう。蝿は綺麗に綺麗に二つに分かれた。

 その様子を居間からじっと見ていたドジソン君が欠伸をしながら言った。
「お前の部屋汚ねぇな」
 
 僕は長包丁を仕舞って台所から出るとそんな彼に油分がひどく浮いたインスタントコーヒーを淹れてあげた。ドジソン君は「俺は珈琲はブラックで飲むのが好きでね」と、ミルクも砂糖も這入っていないまるで、せんぶりのように苦いだけのインスタントコーヒーを美味そうに啜った。そんな彼をぼんやりと眺めながら先ほどのおそらく蝿だろう虫が送った一生を思うのだけど、頭の中が妙にぽっかりとして、ロクなことが思い浮かばず、空っぽな頭の中で一匹の蠅が飛び回っているように思え、僅かに羽音さえ聞こえ始めてきた。ああ、そういえば洗濯機に洗濯物がいれっ放しだ。突然そんなことを思い出したのだけど、僕の部屋には洗濯機はない筈でどうにも変な気分だった。

 ドジソン君はコーヒーをすっかり飲み終えると、無邪気な笑顔で「お代わり」と言った。
 二杯目のコーヒーを淹れるため薄暗い台所に戻って、これもひどく錆びついた薬缶を火にかけた。まな板の上では、蝿が綺麗に二つに分かれたまま静かに羽を震わせているかと思うと、そのまま分かれたまま薄暗い台所の中を飛び回り始め、やがて、其々何処かに飛び去っていってしまった。

 僕は台所の電球を代えなくっちゃと思いながらシンクに無造作に置かれた圧力鍋をひょいとのけてみたのだけど、そこには勿論、何もなくて、背後でドジソン君が僕を呼ぶ声だけが何故だか遠く聞こえてくる。



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