第117期 #9
梅雨。曇天の新宿。歌舞伎町入り口前の巨大な横断歩道で信号待ちをしながら、私は隣に立つ女の手首を見ていた。凛とした顔立ちで、女子大生風に見えるその女の手首には、はっきりと一本の傷が刻まれている。どうしてこの子が手首に傷を付けなければならないのか。私にはそれがどうにも理解できなかった。
溜息混じりに顔を上げると、私は異変に気が付いた。私の前に立っている男の手首にも傷があり、その横にいる老婆の手首にも傷があった。はっとして、ぐるりと辺りを見回せば、そこにいる人間が全員同じように傷を持っている。私は呆然とした。これは一体どういうことなのだろうか。
その時、それまで交通量の激しかった目の前の道路から突然車の往来が消えた。周りの信号が全て赤に変わり、人々が何かを迎えるように顔を上げた。
左方から爆音が聞こえた。思わず驚き、そちらを向けば何台もの戦車が連なり、空砲を上げながらこちらに近づいてくる。その後ろには大掛かりなブラスバンドの隊列が続き、盛大に行進曲の演奏を始めた。人々は待っていたとばかりにその手を空高く突き上げ、歓声を上げ始めた。それはまるで、自分達の傷をパレードに見せ付けているかのようにすら見えた。
パレードは靖国通りを西から東へ、市谷方面へ行進を続ける。パレードが我々の目の前を行き過ぎようかとした時、人々はついに待ちかねたかのように次々と車道へ飛び出し、その後ろへと列を成すと、お互いに手を取り合い、力強く行進を始めた。その中に私は大勢の懐かしい顔ぶれを見た。母親がいた。初恋の相手がいた。しかしながら、彼らはみな一様に手首に傷を持っているのだった。
一体何が起こっているのだろう。
彼らはどこへ行くのだろう。
いや、何をするというのだろう。
私はどうすればいいのだろう。
私は
「わかっているくせに」
いつの間にか私の隣に立っていた少年が、その手首を私に見せつけニッと笑う。彼の手首には十字の傷が刻まれていた。
「誰だってこうして傷を付けてるんだ」
「でも」
「そうやっていつまでも黙って見ているつもりかい?」
私が何かを答える間もなく、彼もまた車道に走り出し、パレードに加わった。音楽と人々の歓声がどんどんと遠退いて行く。パレードは今、過ぎ去ろうとしていた。
あとには誰一人いない新宿に私が一人、残された。呆然とパレードの行き先を見つめる私の頭上では、カラス達が延々と旋回を続けていた。