第114期 #11

酔いどれ

 歩き出したその歩幅が気に入らない、と男は踏み出した足を元の位置に戻した。すると風に流されて来た紙幣を偶然踏んでしまい、男はその金で一杯ひっかけることにした。
 酒場が開くまで入口のドアの前で立って待っていた。白く大きな犬が男の足元をしばらく嗅いでいった。夢遊病者の手つきで若者が店を開いた。男の長い影が看板を出す若者の体をなぞっていき薄暗がりに溶け込むと、男は着いたカウンター席から一番安い酒を有金いっぱいに注文した。南瓜のように硬く脹らんだ店主がようやく姿を現して、男は少し考えた末に一番高い酒を頼んだ。店主は靴跡のくっきりついた紙幣を胡散臭そうに受け取ると、小さな器に少量の酒を注いで男に差し出した。男は顔だけをちょこんと突き出して酒の輝きを見、音を鳴らしてくんくん嗅いだ。店主と若者は酒をじっと見つめたまま動かなくなった男を息を殺して眺めていた。男が親指と人差し指で静かに器を持ち上げたところで学生連中が靴音荒々しく入って来た。男は肩をびくつかせて驚き、咄嗟に盗んだ物を隠すような身振りで高価な酒を胃の中に流し込んだ。男は空になった器を不思議そうに眺め、虚空を見上げると、何かぶつぶつ言いながら背中を丸めて酒場から出て行った。その日、呑み過ぎた一人の学生が病院のベッドで息を引き取った。
 風が走っていた。あちこちに目を配ったが、紙幣らしい影は見当たらなかった。男は騒がしい酒場の前で何度も、足を出しては引っ込める動作を繰り返した。しかし金は釣れなかった。橋に差し掛かり、盲の乞食に金を乞われ、男は反対に乞食の金を少量くすねたが、それに気がついた乞食はしかし何も言わず往来に声を張り続けた。橋の終わりに来て、男は別の乞食にその金をくれてやった。その乞食は声が出なかった。
 小さな劇場がマッチの火のように灯り、男の影を地面に淡く繋ぎ止めた。丁度モリエールがかかっていたが薄い壁越しにくすりとも聞こえて来なかった。男は大欠伸をし倒れるように踏み出したその一歩で、今日二枚目の紙幣を捕まえた。
 男は教会にやって来た。誰の姿もない。一度椅子の隅で丸くなったが、繭を破るように体を起こすと、祭壇までよろよろ歩いていき、右の靴の中に隠していた皺くちゃの紙幣をきれいに伸ばして二つに折ると、燭台の上にゆっくり翳した。炎が紙幣に移り、大きくなった。黒い粉を払うと、男は祈り、陰になった椅子の暗がりに帰っていった。



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