第112期 #16
新米の猫を、夢の中で見たのはその夜が初めてだった。僕は目が覚めると布団から這い出し、床に静止した冬のミカンに色鉛筆を突き刺した。色は青だった。しかし色は何色でもよかったし、ミカンじゃなくてリンゴでもよかった。しかし僕は青い色鉛筆しか持っていないし、リンゴは昨日腹を空かせた子どもにあげた。ぼろぼろの服を着た憐れな子どもだった。
「ねえ、あたし知ってるよ」
僕は、お城の外周を何も考えずに後ろ歩きしている最中だったし、他人に何かを知られるような人間ではなかったので、たぶんその子どもは別の誰かと勘違いをしているのだろうなと、僕は思っていた。
「ねえ、あたし知ってるんだけど」
「いい加減、僕にまとわりつくのはよせ。僕はお城の秘密なんて知らないし、君の秘密が僕の秘密であるわけがない。なぜなら僕は秘密など持っていないし、僕は青鉛筆を一本持っているだけの人間なのさ」
子どもは薄汚れた小さな手で僕の手をギュっと握った。しもやけで赤く腫れた冷たい手だった。
「あのお城は、もう七百年も前に作られた映画のセットなんでしょ。それくらい誰でも知っているわ」
君は子どものくせに、映画ってものが何なのか知っているのか?
「つまり映画は映画、リンゴはリンゴなんでしょ」
君は大人を馬鹿にしているのか?
「今日は良い天気ですねえ」と僕たちの会話を横切りながら、カビのはえた煮干しみたいな老人が話しかける。「今日みたいな日に死ねたらいいなって、いつも考えているのですがね――じつはその『今日』みたいな日など、いったいいつやって来るのやら――私にはまるで検討がつかないのですよ」
だからいつの間にか『今日』が、『明日』になっていたりするんですよね。
「ようするにあんたたち大人のやってることってさ、この世界をただ丸投げしてるだけでしょ」
僕は頭に被っていたシルクハットを脱ぐと、その中から『リンゴはリンゴ』を取りだした。
「まあいいわ。あたしは誰よりもお腹が空いてるのだから、そのリンゴはあたしのものよ」
生意気な子どもは僕の手からリンゴを奪い取ると、サヨナラも言わず去って行った。
「お前はまず、青鉛筆の意味をよく考えるべきだな」と無責任なカラスが僕に言った。
これでは堂々巡りになってしまう。
僕がやるべきことはまず、新米の猫を土に埋め、お墓を作ることだった。
名前はまだなかった。
(ミカン、リンゴ、青鉛筆)
猫は、昨日死んだのである。