第11期 #5

漂白

 新入社員として入社したあたしは、一ヶ月経った今もまだ仕事に慣れない。先日は浜田さんに「最近三階、夜は片中さんしかおらへんなあ」としみじみ言われてしまった。ショック。

 今日ももう十時近く。先ほど完成した明日の会議資料のコピーを取っていると、そういえばまだ給湯室で布巾の漂白をしていたなと思い出した。慌てて行って水を捨てると、塩素系の、プールのような匂いが部屋中に充満する。
(小学生の匂いだ)
 あたしは元気に泳ぎ回っていた頃のことを思い出しつつ、ぼんやりと布巾をすすいでいた。あの息苦しくて、でも楽しくて、水の跳ねる様を頭に描いて。
「なー、片中さん、まだおんのー」
 いきなりのその声におっかなびっくりして、あたしは「はいー」と急いで応える。浜田さんだ。
「何か手伝おかー」
 その大きな声はこの階の入り口からのようだった。入り口と給湯室には少し距離があるものの、彼女の大きな声はよく通る。
「いや、いいですよー。あたしももうそろそろ帰りまーす」
 負けじとあたしも声を張り上げる。すると「そうなーん」と返事が。
「ええ、どうぞ浜田さんお先にー」
 そう怒鳴ると、「ホンマはよ帰りなー。気いつけてなー」とあたしの声を更に上回る大きさの声が返ってきた。そして次の瞬間にはもう部屋はひっそりとしていたのだ。

(やれやれ)
 大声を出した分、疲労が体を包む。ホント早く帰らないと、と目をしばたかせながら布巾を干して、給湯室の電源を落とす。そこでするりと今まで考えなかったことが頭の中に滑り込んだ。
(そういえば浜田さんはこの広いビルのどの階で働いているのだろうか)
 それと同時に、この前同じ階の先輩と話していたことが頭に浮かぶ。昔この会社にいた女性、彼女の死因は特に過労死とは関係なかったそうだが、先輩曰く「幽霊として会社にまだ居着いていてもおかしくないぐらいには仕事熱心だった」。実際見た人もいるらしいという話に、しかし「非科学的」と鼻を鳴らしたのだその時は。その時は。
 心拍数の上がる気がした。安易に結びつけるのは気が早いと分かっていても、冷や汗が背中を伝いそうで、慌てて心落ち着かせようとする。

(ああ例え、万が一、浜田さんが幽霊であっても)
(そんなことはきっと、あたしの仕事に、関係ない、ないんだ……)

 するとふっと頭の中が真っ白になり、妙に安心して、でもなんだか涙腺の緩むような感じがして、慌てて後片付けに走った。



Copyright © 2003 朽木花織 / 編集: 短編