第101期 #19
私の工房に花房真由美という女が訪ねてきたのは、今から半年ほど前の話になる。真由美は、痩せ気味の女で、肌が病的に白く、眼の下には隈があり、どこか思い詰めた顔をしていた。
職業柄、ほとんど決まった人間以外と会うことはないので、彼女の訪問にはかなり驚いた。そもそも、どうやってこの場所を知ったのだろうか。問い質してみると、彼女がとある富豪の愛人であり、且つ有名なオペラ歌手だということが判明した。音楽に疎い私でも名前を聞いたことがあるくらいの、名の知れた歌手である。ここのことは富豪から聞いたらしい。恐らくは、作品の所有者なのだろう。
真由美は頭を深く下げると、「先生にお願いがあるのです」と言った。血走った両目で私を見つめながら、「私はもうすぐ死にます」「脳に悪性の腫瘍があるのです」「何もかも諦めましたが、一つだけ諦めら切れないものがあります」「何か解りますか?」と一気にまくし立て、こちらの反応を窺うように少し間を置いた。答えようがないので沈黙していると、彼女は噛み締めた唇から白い歯をゆっくり離し、喘ぐように「歌うことです」と言った。
花房真由美の存在意義は「歌」うことであり、「歌う」ことが出来なくなった時点で彼女は彼女として成り立たない。逆説的に言えば「歌う」ことさえ出来るなら、彼女は彼女であり続けるということだ。例えどんなに姿形が変わったとしても。
真由美は床に置いていたアタッシュケースを私に差し出した。中には福沢諭吉が奴隷船の奴隷の如く隙間無く敷き詰められていた。代金ということだろう。特に断る理由もないので、二つ返事でこの仕事を引き受けることにした。むしろ喜んですらいた。彼女のプロフェッショナルとしての矜恃に深く感銘を受けたからだ。彼女の誇り高さは何物にも代え難いものだ。こちらも一切手を抜くことなく、持ちうる全技巧を駆使して最高の物を作り上げると約束した。彼女は何度も礼を言い、リクエストに応えて歌まで歌ってくれた。そして、その天上の響きが記憶から零れぬうちにと、私はすぐに仕事を開始した。
そして今、眼前のテレビには一人の男がバイオリンを弾く様子が映し出されている。それは天上の調べだった。小指の骨で出来た力木が低音を安定させ、背骨の魂柱は深い音色を響かせ、肉を溶かして作ったニスは赤黒く輝き、咽の筋を使った弦は誇らしげに震えている。
花房真由美が確かにそこで歌っていた。