第101期 #20

かっきーん

 弟が身の丈ほどもあるバットを構えて彼を見た。ゴムボールは高い放物線を描き、弟はそれを空振りした。続いて弟がボールを持った。彼はバットで大空の彼方を指し示した。ゴムボールは特有のゆらゆらとした軌道で飛んだ。彼は呼吸を合わせてボールを打った。かっきーん。季節は夏を迎える時期で、弟の肌は浅黒く焼けていた。
 あるとき弟はゲームボーイをやっていた。少年から貰った物だといった。小さなモニタに世界の理を見るような弟の姿が、繰り返す毎日の中で彼の脳裏に焼きついた。

 彼は目を閉じ、縒れた糸玉のような記憶の中から弟の姿を手繰り寄せようと努めた。だが、ひざまずいた少年の衣擦れの音、膝が砂利を躙る音に阻まれた。彼は目を開けた。少年はガムテープで後ろ手に縛られ、池のほとりで静かに正座していた。少年の瞳は池に浮かぶ月を映していた。池の水面が風に揺れ、少年の月がさざなみ立った。彼は携帯でビデオ録画をはじめた。
 なにか言うことはあるか。
 ……。
 なぜ殺した。
 ……。
 彼は池の水面に目を向けた。青錆色に変色した弟の姿を月の中に見た。ズボンが血にまみれ、肛門が傷ついていることは明らかだった。頸に黒ずんだ痣があった。
 弟はどうだった。
 少年は意味を問うような瞳を彼に向けた。
 やりたかったんだろ、弟の具合はどうだった。
 少年の瞳から艶が消えた。
 すごくよかった。
 なぜ殺した。
 ちょっとした意思の相違だった。
 そうか。
 僕にひどいことを言ったんだ。
 少年は照れたような笑みを浮かべた。
 彼は録画を止め、煙草をゆっくりと吸い込んだ。
 これからお前を殺す。俺の記憶を上書きするためだ。お前は一枚のフィルムにすぎない。傷害致死でおよそ十年。俺は新たな人生を始める。それについてなにか言うことは。
 ない。
 彼は少年の眼窩に指を差込んで抉った。
 かっきーん。
 骨の割れる音と金属との衝突音がこだまし、目玉が天高く飛び出した。濡れた眼球は月光を受けてきらきらと輝きながら池の月の中に落ちた。波紋と波紋とが重なり合って月はいっとき光の集合体に戻され、やがて目玉を飲み込んで月の輪郭を取り戻した。

 交番に向かう道すがら、彼は息子を二人同時に失うことになる両親と、息子を失った挙句非難を浴びるであろう少年の両親を想い、両家の方角に頭を下げて謝罪した。見上げた月の中に、飛び出した目玉が吸い込まれてゆく映像が浮かび、彼はたまらずふき出した。



Copyright © 2011 高橋 / 編集: 短編