第10期 #34
フロントガラスに雨粒がはじけて、目の前の赤信号が滲んだ。
雨粒はまた、ひとつ、ふたつ、と増え、それから突然、強く降りだした。
俊明は後部座席にいる五歳の息子に声をかけた。
「テル、雨だ。傘もってきてよかったな」
返事がないので振り返ると、大人びた顔をして彼の息子は眠っていた。一週間逢わないうちにずいぶん変わるものだ。俊明はそう思った。
「朝から降らなくてよかった」
俊明は車体に叩きつけてくる激しい雨音のなかで、静かにひとりごとをいった。
駅の駐車場に着いても、雨は降り続いていた。
俊明は携帯をとりだし、深呼吸をしてから電話をかけた。
「もしもし、トウコ? 俺だけど、いま駅……」
「そう、じゃあ、すぐそっちにいくわ」
「雨降ってるから、家まで送るよ。どこにいる?」
「駅前のスーパー。でもテルと二人で帰るわ」
「寝てるんだ。寝たばかりで起こすのは可哀想だろう」
それは別れた妻を車に乗せる口実でもあった。
雨の中、車は高速に入った。
「テル、まだ起きないのか」
「ええ、ぐっすり寝てる」
「おーい、おきろ」
「やめてよ。寝かせてやりたいっていったじゃない」
「テル、俺と逢うたびにいうんだぜ。パパとママと三人でドライブしようってさ」
「……そんなこと、いってるの……」
「そうさ、このままだと家に着いちまう。おい、テル、テル!」
「ちょっと運転中によそ見しないで、ちゃんと前を」
「目がさめました?」
聞き慣れない声に、前を向くと、看護婦が立っていた。私は車椅子に座っていた。
病室では音声を消されたテレビが笑っていた。
「寝てた?」
「ええ、ぐっすり」
車椅子には、いたるところにメモが張り付けてあった。一枚をみる。
見慣れた筆跡で《もう忘れろ》と書いてあった。
もう一枚をみる。
《おまえの病気は順行性健忘症。事故以後の新しいことが何も覚えられない》
《トウコもテルも死んだおまえのせいだ》
メモの何枚かは日に焼けて、黄ばんでいた。
私はメモを指さし、看護婦に向かっていった。
「これは本当か? 書いたのは俺か?」
看護婦は黙って、頷いた。
「なぜ死んだ? なぜ俺は、こんなところに」
「交通事故で」
《何年経っても、おまえは過去の思い出だけ》
「何日ここにいる? それとも何年か? 俺は……」
フロントガラスに雨粒がはじけて、目の前の赤信号が滲んだ。
「朝から降らなくてよかったわね」
そういって助手席のトウコが後部座席の息子に笑いかけた。