第10期 #32
眼下の入り江では、
一頭のイルカが昼の月を捉えようと、海中から跳ね上がっている。
凪いだ海原はびょうびょうとして、動きと言えば、このイルカの飽くなき跳躍くらいのものだった。
「どうしてあんなことをしているのかしら」
崖上に立って海を見下ろしていた連れの女が言った。
「俺たちに芸当を見せようとしているんだよ」
相手の男が言った。
「そうかしら」
「イルカって、そういう生き物なんだ」
「でも、野生のイルカが、どこで芸を覚えたっていうのよ」
「海に接したシーワールドでは、イルカの芸を見せているからね。イルカは、飼育係が投げ上げるボールを受け取ろうとして、高く跳ね上がるんだ。それを海から見ていて覚えたんだろう。観客が沸きあがるのを見て、自分もしてみようとしたんだよ」
「あの昼の月が、ボールってわけ?」
「ああ、届くはずのない、無償の営為。イルカの夢。励みになるのは、俺たち人間の反応だけだ」
女が揺さぶられたように崖の際まで歩み寄り、拍手をし、黄色い声で叫ぶ。
「イルカさーん、素敵よ!」
透明な海中にイルカの黒い背が浮上してきて、跳ね上がった。先程よりは思いなしか高く。
「ほーら、言ったとおりだろう」
「信じられない。私たちを喜ばせようとしたなんて。あれはイルカ自身のひたむきな賭けよ」
「賭け? 一体何に賭けようってんだ」
「知らない!」
女は拗ねるように言い放って、傍らの青草を乱暴に掴み取った。
それからもイルカは、跳ね上がる行為を繰り返した。海から出てくる間隔が、五分から六分と、やや不規則ではあったが、跳ね上がる行為そのものにさしたる変化は見えなかった。そしてイルカの頭上には、淡く昼の月がかかっている。どこか幻めいて、月は有るようでもあり、無いようでもあった。
女は生欠伸をし、それが男に感染して、間もなく二人は海に接する断崖を離れた。
二十分も歩いて、海が視界から消えようとするとき、女は男を先にやって断崖に続く径を振り返った。海原よりも濃いウルトラマリンの空を、イルカが白い腹を煌かせてロケットのように上昇して行った。
昼の月まではもうすぐだった。
そしてついに
イルカは月を捉えた。
それを見届けると、女は安堵の胸を撫で下ろし、男のところに戻って並んで歩いた。昼の月は彼女のうちにぽっかりと浮かんでいた。が、秘密にして男には教えなかった。