赤い火
吐き出した煙に目を細める。灰皿に灰を落としたときに彼の顔が見えて、私の唇が笑みを作る。彼はタバコを吸わない。私は自分の体を見下ろす。そこにあったのは女の体で、きっと子供を生む器官もついているのだろう。
私は煙草を潰すと四つん這いになり、彼の太ももを押さえつけながらそこに顔を寄せた。彼は何かを喚きながら抵抗するけれど、決して本気ではない。私は肉食獣になって乱暴にしゃぶりつく。
小五のときだった。
学校帰り、家に着くほんの少し手前で初めて足の間から血を流した。知識としては知っていたものの、怖くて泣きながら家に逃げ込んだ。必死になって母を呼んだ。家の廊下を異常なほど長く感じた。居間で母を見つけるとすがりついて、安心してまた泣いた。
泣いてばかりの娘に母は苛立ち、ため息をつくと私の小さな体を乱暴に引き離した。そうしてようやく母は娘の状態に気づいた。ひどく汚れたものを見たような顔で、お風呂場で血を洗い流すように言った。母の機嫌を損ねたことがわかって、私は涙を堪えた。
シャワーを足の間に当てながら声を殺して泣いた。薄まった血が排水溝に吸い込まれるのをただ見つめていた。
また服を汚してしまうことを恐れ、バスタオルを羽織っただけの姿で居間に戻った私に、母はやはり苛立たしげに顔をしかめた。煙草の匂いがした。母は右手の指に挟んでいた煙草をくわえ、一息吸うと、ため息とともに煙を吐き出した。
夜景の綺麗なフレンチレストラン。高級な肉料理と高級な赤ワイン。
投げかけられた言葉に、私はグラスの中身を彼の顔にぶちまけていた。呆然とした顔の彼を、私も呆然と見返した。反射的に動いた口が何かを喚き、席を立つと店を飛び出していた。
(結婚するならやっぱり君みたいな人と……)
彼の言葉が蘇り、歩道の端で足を止め、バッグを漁って煙草を探した。
店に子供連れの家族がいた。その子供を見て彼が話し出した。結婚のことを。家庭のことを。幸せな家族。幸せな家庭を作りたい。誰と? 私と?
「ははっ」
笑わせる。母の苛立たしげな顔が浮かぶ。薄赤く濡れた彼の顔。足の間から流れる血。汚れた水を吸い込む排水溝。震える指で煙草を一本取り出し、口にくわえた。火を点ける。吸った瞬間にむせて咳き込み、腹立たしく地面に落とした。夜に染まった地面の上で、煙草の火だけがぽつんと赤い。すぐに踏み潰されるその小さな火が、いたぶるように私の胸を焼く。
ノック
隣の部屋から軽く壁を叩く音。控えめなノック。一回だったり、二回だったり、三回だったり。そんな遊んでいるようなノックの音が続いている。
彼は壁に背中を預けて座り、片膝を立て、だらけた様子で文庫本を開いている。壁の薄い安アパート。彼の部屋は一番端にあり、隣には誰も住んでいないはずだった。彼もそのことは知っていた。
ときどき彼は、いないはずの住人に対してノックを返すことがあった。そうすることでノックが止まるときもあれば、止まらないときもある。
座っている彼のすぐ横の壁には傷がある。爪か何かで削ったようなざらりとした筋が、何本も何本もそこについている。彼が入居するときにはそんな傷はなかったはずで、彼自身にも傷をつけた記憶はなかった。しかし、壁の傷は日に日に増えていき、いないはずの隣からのノックに悩まされていたこともあり、もしかしたら記憶していないだけで、やはり自分がその傷をつけたのかもしれないと彼は考えた。ノックの音は幻聴であり、壁の傷は夢遊病のようなものではないだろうか、と。
何か悩みでもあるのだろうか。考えてみたものの、あるといえばあるし、ないといえばない、そんな曖昧な答えしか出てこなかった。ただ、ノックの音と壁の傷には何かしらの対処をしたほうがよいだろうという予感はした。だとしても、その対処の仕方が彼にはわからなかった。平然とした振りでいつもの暮らしを続けたものの、彼の内心は恐れや焦りでざわついていた。
そうして一先ず、たまにノックを返すことにしたのだ。それは試しにやってみた程度の行為だったが、続けていくうちにノックは――なくなりはしないまでも――次第に少なくなり、壁の傷は増えなくなった。そのうちに彼はだらけながら文庫本を読むまでに落ち着いたのだった。
ある日を境に、ずっと続いていたノックの音が止んだ。隣の部屋に住人が入ってきたのだ。隣の住人の足音や鼻歌、テレビやラジオの音、料理をする音などが薄い壁越しに聞こえてくることで、彼はずっと悩まされていたはずのノックの音自体をほとんど思い出さなくなっていた。
取り戻した平穏な生活。ただごくたまに、ちょっとした物音に対して、無意識に壁をノックしようとして、はっと我に返ることがあった。そのとき彼は、中途半端に上げた手を下ろしながら、少しだけ寂しそうな顔をする。
穢れた手
「ほんとに?」
クラスメイトの楽しげな言葉を聞きながら自分の髪を触る。うなじの横で括った二つの髪を、胸の奥にある自分の言葉を留めるために、身を竦めるようにして両手で握る。その仕草が恥ずかしがっているように見えるらしく、わたしはよくからかわれる。クラスメイトの一人が他のクラスメイトを囲まれて自分の彼氏の話をしている。
キスをした舌を入れられた身体を弄られたセックスした。
わたしの中に生まれるのは嘲りと憧れの言葉。へえ、いいよね。本当に羨ましい。好きな男の子となんでしょ? わたしみたいにお金で買われてさせられてるわけじゃないんでしょ?
「うぶだね、恵美里はほんとに」
別の友達が背中に寄りかかってきてからかう。首に回された腕は夏の名残で日に焼けた小麦色、穢れなく、きっとまだ男の性器など握ったことはないだろう。一瞬あとに、わたしの表面が恥ずかしそうに俯く。
生みの親のつけた名前はきさら。養子として引き取られた家では恵美里。借金の肩代わりをする条件として、わたしと生みの親はもう二度と会わない約束をした。そうやって売られた先は田舎の旧家、年老いた独裁者がいて、その中では誰も逆らうことができない。
わたしは家の前で括っていた髪を解く。そうすることで仮面を剥がす。仮面? わたしがときどきわたしを嘲る。へえ、するとお前の本性はあれなんだ?
舌と唇で奉仕したあと、濡れた陰茎を指でこすりながら跨る。入れるときにはお礼を言う。“入れてもらえる”のだ。可愛らしく鼻を鳴らしながら身体を揺らしていくうちに、老人が「恵美里、恵美里」としわがれた声で呟き、わたしの膨らみかけの胸を乱暴に掴む。
「気持ちいいですか」
「ああ、いいよ恵美里」
わたしはその皺だらけの手を冷めた気持ちで見下ろす。恵美里。もしかすると昔の恋人の名前? わたしはその人に似ている? きっと貴方にとって思い出深い、けれどもう会えない人なんでしょうね。
わたしもいつか、いつかその人のように貴方の前からいなくなる。ここから逃げて、もう二度と戻らない。恵美里でもきさらでもない、貴方達の知らない別の誰かとして生きる。
(ほんとに?)
粘った水音と老人の声に混じってわたしを嘲る声が聞こえる。
(ほんとにこの家から逃れられると思っているの?)
……黙れ。
わたしは乱れた髪を押さえる振りをして耳を塞ぐ。穢れた手。老人の首を絞める自分の姿が脳裏に浮かぶ。