仮掲示板

第200期を読む その3

つづきまして、#5です。(2つ載せるつもりでしたが行数制限の壁が)



#5 地平線の向こうでとびきり甘いケーキを焼こう 彼岸堂
http://tanpen.jp/200/5.html

 例によって人称を確認しておきましょう。

   母と会話しながら私はテレビをつける。

 15段落目からの引用ですが、この小説は一人称小説のようです。
 さて、語り手である「私」のプロフィールを探ってみましょう。

    小説を書けなくなって二週間が経った。
    目を瞑れば書きたいものが浮かんだのに、思い起こされるのはかつての上司の顔ばかり。
    全てから解放されて夢に向かってフルパワーとは何だったのか。
   「うん、いやマジで。一か月前。勢いで」

 1段落目から4段落目の引用です(実際は、3段落目と4段落目の間に1行空けてあります)。この小説は、これまで見てきた#2、#3のような一人称寄りの三人称小説よりも、さらに#1の一人称小説よりも、語り手の五感と感情が生のままに語られており、プロフィールが俯瞰的に語られることがありません。なので情報としては不確かですが、上の引用を見ると、どうやら語り手は1ヶ月前に退職しており、また、2週間前から書けなくなっているものの、小説を日常的に書く人物であると推測できます。

    実家にはいつ帰ってくるのか、だなんて言われると思わなかった。
    やっぱ都会で一人病んで死なれるより、穀潰しとして抱えた方がマシと考えたのかもしれない。

   「新幹線まだ買ってないしさ。え、いやそりゃ新幹線でしょ。ええ? 飛行機?」

 そして、語り手は現在、「都会」(場所は特定できません)で暮らしており、そこから「新幹線」で行くような距離に「実家」があり、さらに実家がある県あるいは隣接する県には空港があるということが推測できます。
 語り手のプロフィールについて探れるのはこのくらいです。では、物語に入っていきましょう。

   電話越しの母は優しかった。

   ソファで寝ながら、右耳にスマホを当てつつ、周囲を見回す(我ながら器用だ)。

 語り手は、実家にいる母とスマートフォンで電話をしています。私は先ほど、この小説の語りについて「語り手の五感と感情が生のままに語られており」と書きましたが、語り手が耳にしているはずの母の声についてはほとんど記述されていません。その理由を、以下の引用から探れそうです。

   これ以上、母の声を聞きながら部屋のもの一つ一つの存在を認識したくなかった。

 母の声を聞きながらでは認識することに耐えられない「部屋のもの」とは、何でしょうか。以下に引用します。

   高校と大学の時の文芸誌。何書いていたんだっけ。

   本棚。氷と炎の歌。夏への扉。陰陽師。杜子春。蜂蜜と遠雷。

 「高校と大学の時の文芸誌」、「本棚」、そして小説のタイトル(『氷と炎の歌』『夏への扉』『陰陽師』『杜子春』『蜂蜜と遠雷』)が挙げられています。語り手は、母の声を聞きながらでは小説を認識することに耐えられないと言います。なぜでしょう。その理由を、以下の引用から探っていきましょう。

   「私、小説書いてたんだ」

    私は通話を切った。

    窓の外で明滅する光。聞いたことのない音。
    ……そうだよ、思い出した。
    いつだって私は、コーヒーに砂糖。痛みに喜び。死に花を添えてきた。
    そしてそれは――――心の安寧なんて程遠いところから生まれるものだったんだ。

 語り手は、「いつだって私は、コーヒーに砂糖。痛みに喜び。死に花を添えてきた」ことを思い出し、それは「心の安寧なんて程遠いところから生まれるものだった」ことを思い出します。この引用の直後、語り手が小説の題名決めに取りかかることから、「コーヒーに砂糖。痛みに喜び。死に花を添えてきた」というのは、小説を書くことと関連がありそうだと推測できます。そして、小説を書くことが「心の安寧なんて程遠いところから生まれるものだった」のだと仮定すると、母の声を聞きながらでは小説を認識することに耐えられなかった理由も、推測できます。
 語り手は現在、退職したため「全てから解放されて夢に向かってフルパワー」な状況にあります。さらに、語り手を「穀潰しとして抱えた方がマシと考えたのかもしれない」母から「実家にはいつ帰ってくるのか」と言われていました。この状況を「心の安寧」と呼んでも構わないでしょう。2週間前から小説が書けなくなっている語り手は、母からさらなる「心の安寧」へと誘われることで小説を書くことから遠ざかることを、無意識に恐れていたのではないでしょうか。その恐れが、母の声についての記述が極端に少ないことの理由だと推測できます。

   そうさ、私は――――書かなきゃ生きていないのさ。

 恐れを脱却した語り手は、この小説の最後にこう宣言するわけですが、脱却のきっかけを作ったテレビ映像の描写が興味深いので、少し見ていきましょう。

   『――――り返します! これは、現実の映像です!』
   『――突如現れた――――未だ都心部を――』
   『こんなことが、ああ、そんな――』 
   『――――府はたった今――――』
   『緊急――――』
   『ただちに――――繰り返します。ただちに――』


 テレビの音声を記述していると思われる箇所です(間に挟まれる、母と会話する語り手の台詞は省いています)。興味深いのは、語り手は「テレビ上で繰り広げられているそれを見」ているのですが、記述されているのは音声のみという点です。母の声とは違い、この音声はしっかり鉤括弧で括られていますので、語り手の耳に実際に聞こえている音声だと考えられます。この途切れ途切れの記述は、実際に途切れ途切れの音声だからそうなっているのでしょう。しかし、「見る」と語り手が意識したにもかかわらず、実際に意識された(記述された)のは音声のみ、というのは一体どういうことでしょうか。考えられるのは、見ていたが実際には他のものを見ていた(だから音声のみ記述された)、ということです。他のもの、とは、おそらく以下の引用に見られるものです。

 炎。硝煙。慟哭。血。肉と骨。光。星。夜に闇。月。
 少女の手と髪。海。果て。地平線。
 きっと溢れてくる。すぐそこまでくる。

 引用の1段落目と2段落目が、おそらく語り手の頭に浮かんでいるイメージです。この引用文はテレビを消した後に出てくるものですが、テレビを見ている間も、このイメージ(あるいはその萌芽)を見ていたのだろうと私は考えています。
 さて、テレビで生放送された都市部の大惨事として、2001年9月11日にアメリカで起きた同時多発テロ事件における、ワールドトレードセンターの倒壊が思い浮かびます。

   Wikipedia - アメリカ同時多発テロ事件
   https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E5%90%8C%E6%99%82%E5%A4%9A%E7%99%BA%E3%83%86%E3%83%AD%E4%BA%8B%E4%BB%B6

 おそらく、語り手が見ているテレビに映っている出来事も、似たようなものなのでしょう。これを見た語り手は、以下のように思います。

   ――本物がある今しか、私が書ける最高のものは生まれない。

 アメリカ同時多発テロ事件が当時、小説を書く者にとって創作の動機になっただろうことは、容易に想像できます。この小説の語り手もその口ですが、おそらくは現在進行形で人が死んでいっている状況を「本物」と呼ぶのは、自分の欲望に正直ではあるにせよ、倫理に反するものでしょう。

   そうさ、私は――――書かなきゃ生きていないのさ。

 思考はマッドサイエンティスト的ですが、語り手は、つい1ヶ月前まで会社勤めをしていた一般人です。この落差が、滑稽さ、あるいはグロテスクなものとして表れています。



(#6へ、つづく)

運営: 短編 / 連絡先: webmaster@tanpen.jp