仮掲示板

「短編」のことや第85期感想その1など

1002です。

○「短編」の運営方針について投稿者で話をすすめようとすることへの疑問

○ドックンドール(元冷たいギフト)さんへの全面的共感

○のいさんへの返信

○「奴隷日記」と「おじいちゃんの呪い」の比較感想

ーー
 
○「短編」の運営方針について投稿者で話をすすめようとすることへの疑問

いろいろと掲示板の議論を楽しく拝読しているのですが、ひとつ気になっていることがあります。この「短編」は小説のコンテストサイトですが、その運営はほぼ全面的に管理人の北村さんが一人で行っているもので、いわゆる正式なコンテストとはすべてにおいてまったくちがっているわけです。

いってみれば、個人サイトなわけです。北村さんが「やめます」といえば、おしまいになり、「今度から10000字にします」といえば一万字小説を投稿しなければなりません。「短編」が多くの消えていった文芸サイトのなかで残り続けているのは、そんな立場の北村さんがほとんど発言せず、あるいは最初の方針を曲げず、もくもくと事務作業だけこなしているからで、そういう風通しのよさに共感する者が集まってきているのだと思います。

単刀直入にいうと、「短編」の読者獲得の心配などは、投稿者が考える必要があるのかという疑問です。盛り上げることを考えるのは、北村さんに任されていて、運営人が意見を掲示板で求めるならば、そのときに運営について意見すればいいのではないか、という疑問をもってました。

私としては、今の「短編」運営方針になんの不満もありません。票が多い少ないも、自分が考えることではないと思ってます。むしろ自分にできるのは読み手ならば、作品感想を、自分の作品としてある程度の熱をいれて書くこと。書き手ならば、毎月かくことがなくても投稿をつづけていくこと。書けないときもきちんと三票を投票しつづけること。これを徹底するほうが、「盛り上げよう、盛り上げよう」というのより、盛り上がっていく気がします。

あと、参考になるかはわかりませんが、太宰治賞の応募要項をはっておきます。

http://www.chikumashobo.co.jp/blog/dazai/

↑締切は12月10日です。50枚からです。私は10月末の群像新人文学賞に投稿しましたが、やはり、書きまくっていくしか道はうまれない気がしてます。今、ネタもテーマもなくて本当のからっぽ状態なんですが、私は太宰治賞絶対、なにか書いて、とりあえず50枚書いてだすことにします。仲間を募集するわけじゃないんですが、短編の先にある長編にむけて仲間内で刺戟しあうほうが、短編の運営議論より、書き手としても成長できる気がする。

(私はもう何度も長編を応募して落ちています。予選すら通過しません。書くときがないときは日記をだしたこともあります。そういうレベルです。)


○ドックンドール(元冷たいギフト)さんへの全面的共感

私は「短編」を友人づくりの場としてとらえていないのですが、あなたの書き込みを読んで同志として友達になりたい、と思いました。

いろんな意見があるけれども、あなたの書くように、いい書き手になるためにはいい読み手であるべきだ(正確な引用ではありませんが)、には私は全面賛成です。

「どうして書くのかって? 読んだからだよ」

というのが私の根本的な動機です。ここが違っている人とは議論にならないと思うので、議論はさけます。

ただ、この議論の問題は「イイ読み手」の「イイ」は何をもって「イイ」とするか、にあるとは思う。私は小説は国語のテストじゃないのだから、作者の狙いを抑えるとか、そんな読み方はまったくイイとは思わない。私にとってのイイ読み方というのは、書かれた物語を基本的に共感しながら(あるいは自分を抑えて我慢しながら)読み、好き嫌いでばっさり二分するのでなく、理解できるところと理解できないところをハッキリさせて、あとは作品そのものの雰囲気に浸ることです。そういう読み方ができたときはイイ読み方ができたと思う。

それはさておき、あなたの書き込み内容は、私が書いたのを読んでいる気がしました。ただし、私が書けばもっとグチャグチャな文章になったでしょう。こういう人も「短編」にいると思うと、それだけで「短編」の楽しみが増えました。私も量より質です。

○のいさんへの返信

いろいろすいませんでした。今期は特におもしろかったです。初期の「空はオールブルー」あたりも好きですが、あのころあたりの「自分(もしくは独り言)一色」と比べると、この「奴隷日記」
は一人称なのに三人称の小説を読んでいるくらいに作者と作品のあいだに適度な距離感が保たれていておもしろかったです。来期も楽しみにしています。


○「奴隷日記」と「おじいちゃんの呪い」の比較感想

「奴隷日記」と「おじいちゃんの呪い」は私にはライバル的な作品だなあ、と思って一読したときから比較していました。今期の高橋さんの作品への感想をここに書くのは失礼かもしれませんが、比較なしでは感想も書きづらいので、ここに「おじいちゃんの呪い」の感想もあわせてかかせてもらいます。



この「奴隷日記」がどうしてこんなに面白いのかの推薦理由を書いてみようと思って、「どこが」面白いかを考えているところなのだが、

日記なのに「僕」とも「俺」とも書かず、あくまでも「自分」という主語がわずかに2回あるのみで、ほとんど主語が使われていない――というのが、この作品にリアリティを与えている気がする。ほんとうにこの主人公は奴隷なんだろうな、というのが読んでいて伝わってくる。

自分のことを「僕」とも「俺」とも「私」とも設定せず、なるべくなら<自分>とさえ使いたくない日記の書き手……これだけで、なんだか話にひきこまれるし、他の投稿作品とくらべて圧倒的に話にムリがなく読めるのも、この人称の使い方へのこだわりという、ほんのちょっとの差が大きいんだろうな、と思う。こういうリアリティの有無を決める小さな差の積み重ねが作品の深みを決定づけるんだろう。勉強になる。

「奴隷日記」が面白い理由はもちろん、これだけではない。設定が本来ならばメチャクチャであるはずなのに(死体の内臓を裂く仕事……)、それがまったく普通のことのように読める。死体の内臓をグチャグチャいじるグロテスクさを愛するマニアを意識して書いてる……わけでもなくて、あくまでも、このグロテスクな設定は、現実世界の比喩として、気持ち悪さをまったく感じさせずに読むことをゆるしてくれる。



少し脱線すると、今期の「おじいちゃんの呪い」はその点で、この作品「奴隷日記」とは対称的だったと思う。二つの作品世界は似ているようで、まったくちがう。「おじいちゃんの呪い」はあまりにも描写が巧すぎているのに、それだからこそ私には「性をめぐるあれこれ」部分ばかりが強調されてきて、私は受け付けなかった。超洗練された極エログロテスク小説を読んだ印象しか残らない。ここまで表現力があるならば、そのエログロを突き抜けた先の、愛への浄化みたいなものにはつながらないのか、と思う。つまり、私には作者はただ爺さんが孫のような女学生(あるいは本物の孫)を犯しながら死んだ情景をただ楽しみながら書きたくて、しかし、それを上質な読み物とすべく、あらゆるアクを丁寧にとりのぞき、匂いを消し、エログロに興味の無い人にも読めるような普遍的な展開に持っていった……としか読めないのだ。普通は逆である。老醜の悲しみ、老いても欲望が消えぬことなどを表現するために、あえて性描写を物語のなかに取り入れる。ところが私は
「おじいちゃんの呪い」からは、ただそのシーンのグロテスクさを楽しむためだけの小説としかよめなかった。

なので、もしエログロだけを読みたくてその中でランクをつければ、文句なしに最高級の一本ということになる。私はそういう性嗜好ではないので残念である。

さらにしつこいけれども、私ならば、ここまで技術があるならば、エログロをこえたものに向かって、主人公たちを導いていく話を書きたいと思う。




それで、この「奴隷日記」に話を戻すと、ここで出てくるハラワタやゾウモツはちっとも臭わないし、主人公の心象風景としてするっと言葉を受け入れられたのだが、たいがいの作品は、するっと読めると、今度はそれだけで終ってしまうのだが、このゾーモツやハラワタをナイフで日々裂いている奴隷の話は、臭くなくてスルッと読めるのに、なんだか切実な気持ちを読み手の私から引き出してくる。

涙をながしながら、土を掘っている男の顔みたいなのが見えてくるようで、それはゾーモツでも土でも、あるいはパソコンのキーボードを連打しているのでも、ひたすら台所で皿を洗っていることにも置き換えられるような、奴隷としての単純作業にたいするリアリティあふれる叫び声として受け取れる。それなのに、やはりこの作品で主人公がナイフを持ってひきだすのはハラワタでしかない、としか思えてくる。こういうところ(リアリティがあるのに臭みはないし、臭みはないのにやっぱりハラワタがみえてきて、それは自分にとっての労働に置き換えられるかとおもえば、やはり最後はハラワタにもどっていく……)がこの作品の深さだ。

Re:「短編」のことや第85期感想その1など

1002さんへ

どっちかというと反発の方が多いかと思いましたが、全面的に共感いただけるとは。トモダチになりましょう。
また、元空洞です、が発言した具体案ですが、一ミリも具体案だとは思ってません。どちらにしても「短編」サイトそのものか、北村さんに迷惑がかかるので。
読者拡大を図るのであれば、aとb以外で何か見出せればよいですな。

あと、元空洞です、の発言を修正します。

私は断然“量より質”なんで、今の投稿者・投票者・感想を最低限維持できない読者層(投票者層)を維持できない拡大なんて馬鹿げてると思うわ。

私は断然“量より質”なんで、今の投稿者・投票者・感想を最低限維持できない読者層(投票者層)の拡大なんて馬鹿げてると思うわ。

俺もいい加減うざいな。
これで失礼します。

Re:「短編」のことや第85期感想その1など

〉いろいろと掲示板の議論を楽しく拝読しているのですが、ひとつ気になっていることがあります。この「短編」は小説のコンテストサイトですが、その運営はほぼ全面的に管理人の北村さんが一人で行っているもので、いわゆる正式なコンテストとはすべてにおいてまったくちがっているわけです。

〉いってみれば、個人サイトなわけです。

その通りです。その通りなんですが、無駄にいろいろ云々するのはおもしろいから続けてほしいなというのが僕のスタンスです。
ですから僕は、参加者獲得についてなど心配してほしいんですよ。おもしろいから。

第85期感想その2など

1002です。

○冷たいギフト(元空洞です)さん、わらさんへの返信
○85期作品「龍ができるまで」「笑う淑女の生活」感想

――

○冷たいギフト(元空洞です)さん、わらさんへの返信

冷たいギフト(元空洞です)さん

返信ありがとうございます。冷たいギフトさんと私はトモダチになりました。今後ともよろしく。あなたの文章に惹かれているので、作品感想なんかビシバシ書きあいましょう。作品感想に書き手の実力が一番でて、勉強になるからね(この点をいまいち理解されない)。

わらさん

わらさんの姿勢に反発しているわけではありません。疑問だったので聞いてみたかったのです。なるほど「『短編』の方針は基本的に運営者に委ねられていることは知っていて、気に入らなければ去ればいいということは知ってるが、アーダコーダ言うのがおもしろいから言うのを続ける」ということですね。なるほど、問題ありません。たしかにおもしろいなと思う意見をときどきみかけます。私はチャットなどポリシーで参加しませんけど、傍目には、こういうのが続けばおもしろくなるかもなと思ってたのですよ。でもおもしろくなくなったらやめるんでしょ? 

運営は地味なものだと思う。刺戟だけ(おもしろさだけが)ほしいのであれば、向かないと思う。おもしろくなくてもやりたい、というくらい責任とってくれるならば私も興味を持ちますけど、おもしろくなくなった、とある日やめられたら期待してた者の気持ちはどうなる。

○85期作品「龍ができるまで」「笑う淑女の生活」感想

「龍ができるまで」

 圧倒的な優勝作品! という貫禄を感じさせるものだけを投票しなければならないならば、この作品は推薦しないけれども、何度読んでもそのたびにクスッと笑える軽さがあって、なおかつ描かれているテーマそのものに共感をもてる作品といえば、なんといっても「龍ができるまで」を薦める。

 ストーリーは単純明快で、ある日気がついたらさらわれていた主人公の目の前に、不気味な博士が立っていて、どうやら主人公自身を世直しヒーローに改造しようとしている。主人公は何をやっても失敗してしまう自分に嫌気がさしていたので、この機会を喜ぶものの、結局博士が改造するのは美男子であって、主人公ではなかった。意見をききたかっただけだった博士は主人公を撃つというオチになる。

 要約すると簡単な話になるが、作品を読むと、いろんなところに書きなれた作者ならではの小技が効いている。うっかりすると読み飛ばしてしまいそうになるほど、テクニックがさりげなく使われていて、そういう点で洗練されてる書き手だな、と思った。

 たとえば、

ーー

「ありがとう、やはり君を選んで正解だった。実に参考になったよ」
「そいつはよかった。なら早く改造してくれ」
「心得た」

 白衣の男が懐から銃を取り出す。

「え?」
「誰も君を改造するとは言ってないよ? ちゃんと絶世のイケメンを別に用意してある」
「ちょ」
「君の意見はきっと採用されるよ」

 あ、そういや何とか博士って悪役だったな。


 ぱん。


ーー

これは作品のラスト部分であるが、文字数にして180字以下である。それなのに、この部分がそれまでの800字をかるくひっくり返してみせる。ここは構成上すごいことをしている。その秘密は会話のテンポのよさにあるにちがいない。前半部にわりと説明的な文章を持ってきておいて、主人公の状況や心情をしっかり描き、読者を入り込ませておいて、後半いっきにオチにむけて、ひきしめていく。

そのラストにおいても、会話だけでいくようにみせて、唐突に間ができたところに銃がとりだされ、主人公の驚きもつかのま、<あ、そういや何とか博士って悪役だったな。 ぱん。>は、もう見事というしかないね。この技術だけで推薦に値するのに、それに加えて、本来は社会に対して恨みばかり抱えている、いわゆる<弱者>な男を軽蔑して笑うのではなく、なんとなく彼の立場にたっている作者の視線が温かいように思った。なので、このヒーローになり損ねた主人公の滑稽さを読み手の私は軽蔑の笑いで眺める必要はなく、落語の人物たちの失敗に似た、おおらかな笑いを許されて、読んでいてほのぼのする。上質な笑いというものがなんであるのかを知っている作者なんだろう。

これは蛇足だが、作者のブログを読んでいて、いつも仮面ライダーシリーズについての作者なりの分析があるのだが、暗号解読をする気分で読ませてもらっている。そういえば仮面ライダーの仮面は、今の感覚でみても当時の感覚でみても、なんだか虫みたいで、下手するとかっこ悪くさえある。そんな虫のような面をかぶったヒーローで世の子供たちの人気を総ざらいしたなんて、よほど仮面ライダーはおもしろいのだろう。そのおもしろさの秘密を毎週毎週読み解いている作者の描き出す世界の細部がうまくかけているのは、日々の訓練(のつもりではないだろうが)の賜物なのであろう。

余談であるが、私も長編執筆において、「短編」のこの感想書きを通じて、作者の世界に実作者の気分で入り込む体験を毎月させていただいていることが、いろいろ役に立っている気がする。


「笑う淑女の生活」

「おもしろければいい」という作者の概念がそのまま投影されている作品のように思えた。なぜか居酒屋の給仕人であるらしいのに、貴族みたいな姉妹がでてきて、これがまたなぜか人生について思い悩んでいるところにとつぜん力士があらわれたり、する。たしかにおもしろい。

 ただ、この「おもしろい」のおもしろさについて、考えさせられる。この作品の「おもしろさ」はすべて責任回避されたところの束の間の混乱、無責任さ、突発的なギャグ、みたいなものばかりが「おもしろいもの」として設定されていて、そういうのはスパイスとしてなら、楽しめるが作品のリズムにうねりがなく、スパイスだけ、な印象。

 本当におもしろい<おもしろさ>というものは、おそらく一読したときに読みながしてしまいそうなつまらないものの中に、あるいは、「龍ができるまで」のような、筋がきっちりしていて作者が物語の笑いにしっかりと責任をとっている姿勢が垣間見れたうえで、なおかつその作者の書き手としての藝の力で笑わされるような、そんな「おもしろさ」を私はおもしろいと思いたい。まあ、無責任な笑いというのも嫌いではないのだが、「おもしろいだろ?」で押し付けられる種類のおもしろさは、おもしろさが鮮度に左右されてしまう。なので読みながら、これはいつまでもおもしろく思える作品なんだろうかと不安になって、その点で作品が信用できないから、どうしても読み捨ててしまいそうになる。

Re:「短編」のことや第85期感想その1など

今回、初めて決勝まで残りました。(笑)
最初に自分の名前に気付いたときは「は?」でしたが、嬉しい限りです。
えっと、賛否両論なのは読み手がそれぞれ違うので、毎回両方とも受け止めてはいるのですが、今回は賛否の差が極端だったように思いました、傑作だと言ってもらえたかと思えば、面白さが分からないと言われたりで、若干困惑気味ではあるのですが、やはりそこは読み手が違うのだから仕方ないのだなと思います。

今作「奴隷日記」は実のところ、私の中では日記ではなくただの奴隷の独白というか、一日一日思っていることでしかありませんでした、でも書いている途中に日々の区切りが無く苦しさがないように思えたので日記にしたのですが、つじつまが合わなくなってしまったところがいくつか出来てしまって…奴隷なのに字は書けるわ、紙とか書けるものもってるわで、おいおいって感じではあったのですが、そこを気にせずに良いと言ってくださった方々に感謝いたします。あと1002さん、いつも凄くちゃんと読んで下さっていて、本当に感謝してます。
次回書けるかは分かりませんが書くなら良いものができるといいなと思っています。





〉1002です。

〉○「短編」の運営方針について投稿者で話をすすめようとすることへの疑問

〉○ドックンドール(元冷たいギフト)さんへの全面的共感

〉○のいさんへの返信

〉○「奴隷日記」と「おじいちゃんの呪い」の比較感想

〉ーー
〉 
〉○「短編」の運営方針について投稿者で話をすすめようとすることへの疑問

〉いろいろと掲示板の議論を楽しく拝読しているのですが、ひとつ気になっていることがあります。この「短編」は小説のコンテストサイトですが、その運営はほぼ全面的に管理人の北村さんが一人で行っているもので、いわゆる正式なコンテストとはすべてにおいてまったくちがっているわけです。

〉いってみれば、個人サイトなわけです。北村さんが「やめます」といえば、おしまいになり、「今度から10000字にします」といえば一万字小説を投稿しなければなりません。「短編」が多くの消えていった文芸サイトのなかで残り続けているのは、そんな立場の北村さんがほとんど発言せず、あるいは最初の方針を曲げず、もくもくと事務作業だけこなしているからで、そういう風通しのよさに共感する者が集まってきているのだと思います。

〉単刀直入にいうと、「短編」の読者獲得の心配などは、投稿者が考える必要があるのかという疑問です。盛り上げることを考えるのは、北村さんに任されていて、運営人が意見を掲示板で求めるならば、そのときに運営について意見すればいいのではないか、という疑問をもってました。

〉私としては、今の「短編」運営方針になんの不満もありません。票が多い少ないも、自分が考えることではないと思ってます。むしろ自分にできるのは読み手ならば、作品感想を、自分の作品としてある程度の熱をいれて書くこと。書き手ならば、毎月かくことがなくても投稿をつづけていくこと。書けないときもきちんと三票を投票しつづけること。これを徹底するほうが、「盛り上げよう、盛り上げよう」というのより、盛り上がっていく気がします。

〉あと、参考になるかはわかりませんが、太宰治賞の応募要項をはっておきます。

http://www.chikumashobo.co.jp/blog/dazai/

〉↑締切は12月10日です。50枚からです。私は10月末の群像新人文学賞に投稿しましたが、やはり、書きまくっていくしか道はうまれない気がしてます。今、ネタもテーマもなくて本当のからっぽ状態なんですが、私は太宰治賞絶対、なにか書いて、とりあえず50枚書いてだすことにします。仲間を募集するわけじゃないんですが、短編の先にある長編にむけて仲間内で刺戟しあうほうが、短編の運営議論より、書き手としても成長できる気がする。

〉(私はもう何度も長編を応募して落ちています。予選すら通過しません。書くときがないときは日記をだしたこともあります。そういうレベルです。)


〉○ドックンドール(元冷たいギフト)さんへの全面的共感

〉私は「短編」を友人づくりの場としてとらえていないのですが、あなたの書き込みを読んで同志として友達になりたい、と思いました。

〉いろんな意見があるけれども、あなたの書くように、いい書き手になるためにはいい読み手であるべきだ(正確な引用ではありませんが)、には私は全面賛成です。

〉「どうして書くのかって? 読んだからだよ」

〉というのが私の根本的な動機です。ここが違っている人とは議論にならないと思うので、議論はさけます。

〉ただ、この議論の問題は「イイ読み手」の「イイ」は何をもって「イイ」とするか、にあるとは思う。私は小説は国語のテストじゃないのだから、作者の狙いを抑えるとか、そんな読み方はまったくイイとは思わない。私にとってのイイ読み方というのは、書かれた物語を基本的に共感しながら(あるいは自分を抑えて我慢しながら)読み、好き嫌いでばっさり二分するのでなく、理解できるところと理解できないところをハッキリさせて、あとは作品そのものの雰囲気に浸ることです。そういう読み方ができたときはイイ読み方ができたと思う。

〉それはさておき、あなたの書き込み内容は、私が書いたのを読んでいる気がしました。ただし、私が書けばもっとグチャグチャな文章になったでしょう。こういう人も「短編」にいると思うと、それだけで「短編」の楽しみが増えました。私も量より質です。

〉○のいさんへの返信

〉いろいろすいませんでした。今期は特におもしろかったです。初期の「空はオールブルー」あたりも好きですが、あのころあたりの「自分(もしくは独り言)一色」と比べると、この「奴隷日記」
〉は一人称なのに三人称の小説を読んでいるくらいに作者と作品のあいだに適度な距離感が保たれていておもしろかったです。来期も楽しみにしています。


〉○「奴隷日記」と「おじいちゃんの呪い」の比較感想

〉「奴隷日記」と「おじいちゃんの呪い」は私にはライバル的な作品だなあ、と思って一読したときから比較していました。今期の高橋さんの作品への感想をここに書くのは失礼かもしれませんが、比較なしでは感想も書きづらいので、ここに「おじいちゃんの呪い」の感想もあわせてかかせてもらいます。

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〉この「奴隷日記」がどうしてこんなに面白いのかの推薦理由を書いてみようと思って、「どこが」面白いかを考えているところなのだが、

〉日記なのに「僕」とも「俺」とも書かず、あくまでも「自分」という主語がわずかに2回あるのみで、ほとんど主語が使われていない――というのが、この作品にリアリティを与えている気がする。ほんとうにこの主人公は奴隷なんだろうな、というのが読んでいて伝わってくる。

〉自分のことを「僕」とも「俺」とも「私」とも設定せず、なるべくなら<自分>とさえ使いたくない日記の書き手……これだけで、なんだか話にひきこまれるし、他の投稿作品とくらべて圧倒的に話にムリがなく読めるのも、この人称の使い方へのこだわりという、ほんのちょっとの差が大きいんだろうな、と思う。こういうリアリティの有無を決める小さな差の積み重ねが作品の深みを決定づけるんだろう。勉強になる。

〉「奴隷日記」が面白い理由はもちろん、これだけではない。設定が本来ならばメチャクチャであるはずなのに(死体の内臓を裂く仕事……)、それがまったく普通のことのように読める。死体の内臓をグチャグチャいじるグロテスクさを愛するマニアを意識して書いてる……わけでもなくて、あくまでも、このグロテスクな設定は、現実世界の比喩として、気持ち悪さをまったく感じさせずに読むことをゆるしてくれる。

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〉少し脱線すると、今期の「おじいちゃんの呪い」はその点で、この作品「奴隷日記」とは対称的だったと思う。二つの作品世界は似ているようで、まったくちがう。「おじいちゃんの呪い」はあまりにも描写が巧すぎているのに、それだからこそ私には「性をめぐるあれこれ」部分ばかりが強調されてきて、私は受け付けなかった。超洗練された極エログロテスク小説を読んだ印象しか残らない。ここまで表現力があるならば、そのエログロを突き抜けた先の、愛への浄化みたいなものにはつながらないのか、と思う。つまり、私には作者はただ爺さんが孫のような女学生(あるいは本物の孫)を犯しながら死んだ情景をただ楽しみながら書きたくて、しかし、それを上質な読み物とすべく、あらゆるアクを丁寧にとりのぞき、匂いを消し、エログロに興味の無い人にも読めるような普遍的な展開に持っていった……としか読めないのだ。普通は逆である。老醜の悲しみ、老いても欲望が消えぬことなどを表現するために、あえて性描写を物語のなかに取り入れる。ところが私は
〉「おじいちゃんの呪い」からは、ただそのシーンのグロテスクさを楽しむためだけの小説としかよめなかった。

〉なので、もしエログロだけを読みたくてその中でランクをつければ、文句なしに最高級の一本ということになる。私はそういう性嗜好ではないので残念である。

〉さらにしつこいけれども、私ならば、ここまで技術があるならば、エログロをこえたものに向かって、主人公たちを導いていく話を書きたいと思う。


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〉それで、この「奴隷日記」に話を戻すと、ここで出てくるハラワタやゾウモツはちっとも臭わないし、主人公の心象風景としてするっと言葉を受け入れられたのだが、たいがいの作品は、するっと読めると、今度はそれだけで終ってしまうのだが、このゾーモツやハラワタをナイフで日々裂いている奴隷の話は、臭くなくてスルッと読めるのに、なんだか切実な気持ちを読み手の私から引き出してくる。

〉涙をながしながら、土を掘っている男の顔みたいなのが見えてくるようで、それはゾーモツでも土でも、あるいはパソコンのキーボードを連打しているのでも、ひたすら台所で皿を洗っていることにも置き換えられるような、奴隷としての単純作業にたいするリアリティあふれる叫び声として受け取れる。それなのに、やはりこの作品で主人公がナイフを持ってひきだすのはハラワタでしかない、としか思えてくる。こういうところ(リアリティがあるのに臭みはないし、臭みはないのにやっぱりハラワタがみえてきて、それは自分にとっての労働に置き換えられるかとおもえば、やはり最後はハラワタにもどっていく……)がこの作品の深さだ。

第85期感想その3など

1002です。

●のいさんへの返信
●85期作品「月銀奇譚」「不惑」「おフトン姫を読んで思ったこと」感想

○のいさんへの返信

 返信ありがとうございます。私は毎回自分の基準で感想を書いているだけで、その感想から役にたつところだけとってもらえればいいと思ってます。また、私も感想を書くことで、のいさんの一番いいところを自分のものにできればと思って書いてます。
 
 いい結果がでると「来期は満足できない出来だから、投稿は来月にひかえよう……」と思ってしまうかもしれませんが、良くても悪くても出すべきだ! と私なんかは思います。出来が悪くてもいいじゃありませんか。毎月傑作が書けるほうがおかしい。私のようなしがない感想書きがなにを言おうがほっとけばいいのですよ。大事なことはここを通過点のひとつとして続けることです。なので来期も作品を(よしあしにかかわらず)楽しみにしています(しかしそういいつつ私は私の基準で感想を書きます)。



○「月銀奇譚」感想

 こういう千字小説は、よく知らないけれど「携帯小説サイト」では流行るだろうなと思った。対象読者としては、いわゆるケータイ世代で、パソコンの文字なら読むけれども、紙の本を手にとったことは年に一度あるかないか――そんな読者が、携帯をとおして小説のようなものを読んでみたい、と思ったときに、この作品は彼らにとても新鮮な風を呼び起こすような気がする。普段、ブログやメールで使わない言葉づかいであるし、なにやらおもむきがありそうな気がする。なんとなくイイ雰囲気っぽい気がする。余韻がありそうな気がする。おもしろい気がする。

……というわけで、あるタイプの読者には好評だろうと思う。でも、紙の世界が中心である読み手たち、本屋で売っている本だけではなく図書館で昔の文豪たちの世界を知っている人たちからすれば、この物語は物足りなすぎる。というのは、狐っぽい女が男を誘惑するというこの話は、まだ何も物語が始まっていないように思う。私には余韻にさえ思えなかった。「実は狐である女が男を誘惑する」という昔話の典型に対して、作者はそれにてきとうな読み心地のよい化粧をしただけで、その「狐が男を誘惑する」ことに対する自分の解釈を何も出していないように思った。

つまり、この物語のなかに作者自身の執筆理由のようなものを、思いのようなものを、なにも感じない。私には小説というより、描写の練習としてのスケッチのように思えた。だが……これが多分ケータイ小説読者にはウケるんだろうな。

○「不惑」感想

「奮発して買ったホールケーキも、切り分ける必要はない。皿さえも出さず紙箱を開いてそのままテーブルの上に置いて、私はフォークだけを用意した。」

この話では、この部分がすごく好きだ。とってもいいと思う。四十になろうとしている独り身の切実さがにじみ出ている。それでいて、四十って外見とちがって四十だから何もかも大人ってわけでもないんだよね。

だけど、これが日記ではなくて小説ならば、やはり作者はもっと工夫すべきだと思う。なんとなく小説ではなく新興宗教の説法を読んでいる気分がする。それとも作者は今、女装から宗教に興味を変えているのだろうか? 別にこの場で信仰を否定するわけではないし、信仰を持つことは本来とても大事なことだ。だが、これは小説のはずである。小説であるならば、えんえんと一人語りの感傷から、とうとつに論語に感銘を覚える、といった宗教に目覚める新興宗教入門書のようなパターンではなく、もうすこし外部の刺激をいれるべきではないだろうか。

たとえば、主人公がケーキを前にしてひとりパーティーを開こうとしていると、長屋の隣の子供が一階の廊下で「ヨンジューにしてマドワズ、ヨンジューにしてマドワズ」と叫んでいて、「ぼうや、どうしたのそれ?」「先生が人間は40歳になったらしっかりしてるんだって」「そうよ。人間は40歳になったらきっちり働いてなくっちゃいけないのよ」

なんてことを隣の母息子が主人公の窓をあけっぱなしの部屋の前で喋っているのを、主人公は聞いていて、せっかくひとりでハピバースデーを歌おうとしていたところがためいきでロウソクの火が消えてしまう……みたいな、外部との仕掛けを通じて、この男の孤独をあらわすのはどうだろうか。そうでもないと、世界がどんどん閉じられていく気がする。

○「おフトン姫を読んで思ったこと」感想

 この話は細部がこまかいところまでリアルなところがおもしろかった。あと、「ばんざあい」と叫ぶ唐突さとか言葉の選択にもセンスを感じる。だが、この話をつくっている作者には大臣にも大臣の妻にも男にも愛情がないような気がした。ひきこもりなのに偉そうにする夫とその妻、それに有限会社の冴えない男の三組を適当に組み合わせてみた――そんな感じがした。布団大臣の強調された設定、強調された滑稽さには、なにか作者のひきこもりの人に対する悪意すら感じる。これは現代では「ブラックな笑い」ということで笑い飛ばす種類のもので、たんに私の感性が田舎っぽく古臭いのかもしれないが、生存競争が過酷な東京在住者ではないのんびりした地方人の私には、こういう笑いは苦手だし必要としていないので後味がわるかった。

Re:第85期感想その3など

感想ありがとうございます。

1002さんの感想をお読みしていて思ったのですが、「この話をつくっている作者には」や、「なにか作者のひきこもりの人に対する悪意」ですとか、1002さんは「小説」と「作者」の関係を重要に考えているようです。

やはり作者がどのような人間かが、小説の面白さに関係してくるのでしょうか?

ちなみに私は、意識的に「小説」と「作者」を遠ざけて考えようとしているのですが、そんな意固地に考えるものでもないのかなあ、と最近思っています。
作品と作者の関係は面白いトピックだと前から考えていたので、お伺いしました。



〉○「おフトン姫を読んで思ったこと」感想

〉 この話は細部がこまかいところまでリアルなところがおもしろかった。あと、「ばんざあい」と叫ぶ唐突さとか言葉の選択にもセンスを感じる。だが、この話をつくっている作者には大臣にも大臣の妻にも男にも愛情がないような気がした。ひきこもりなのに偉そうにする夫とその妻、それに有限会社の冴えない男の三組を適当に組み合わせてみた――そんな感じがした。布団大臣の強調された設定、強調された滑稽さには、なにか作者のひきこもりの人に対する悪意すら感じる。これは現代では「ブラックな笑い」ということで笑い飛ばす種類のもので、たんに私の感性が田舎っぽく古臭いのかもしれないが、生存競争が過酷な東京在住者ではないのんびりした地方人の私には、こういう笑いは苦手だし必要としていないので後味がわるかった。

Re*2:第85期感想その3など

携帯電話から失礼します。

〉1002さんは「小説」と「作者」の関係を重要に考えているようです。

作品によると思います。「小説とは作者の体臭である」なんて、決めつけると楽ですが、私は枠にはめてるつもりはありません。



〉やはり作者がどのような人間かが、小説の面白さに関係してくるのでしょうか?

「どのような人間」とくくらないように気をつけてますが、ロボットではなく人間がかく限り、そこには単語ひとつに選択があるはずで、その選択眼をセンス、価値観と呼ぶなら、私はその点を重視します。句読点のつけかたでキャッチコピーが決まるみたいに。


〉ちなみに私は、意識的に「小説」と「作者」を遠ざけて考えようとしているのですが、

どうしてですか?
答えをひとつに絞る必要はありますか?

Re*3:第85期感想その3など

〉作品によると思います。「小説とは作者の体臭である」なんて、決めつけると楽ですが、私は枠にはめてるつもりはありません。

なるほどですね、作品によるんですね。



〉「どのような人間」とくくらないように気をつけてますが、ロボットではなく人間がかく限り、そこには単語ひとつに選択があるはずで、その選択眼をセンス、価値観と呼ぶなら、私はその点を重視します。句読点のつけかたでキャッチコピーが決まるみたいに。

作品内の例えば言語感覚などは、作品に帰属するんじゃなくて、作者に帰属するという考え方なんですね。



〉〉ちなみに私は、意識的に「小説」と「作者」を遠ざけて考えようとしているのですが、

〉どうしてですか?

これは作者を知ってしまうと、作品自体よりも、作品と作者の関係のほうが面白くなってきてしまうからです。
この「短編」というサイトの中で言えば、
・先月はエログロの面白い作品を書いていた、
・だけど今月は恋愛ものでつまらない作品だった、
みたいなことがあったとすると、突然恋愛ものに目覚めてチャレンジしたけど失敗しちゃったのかなとか、作品自体よりもそういう作者の心理の履歴を想像する方が面白くなっちゃうんですよね。
だから「小説」と「作者」を遠ざけて考えていたんだけど、完全に意識外に追いやるなんて無理だし、最近は素直に「小説」と「作者」の関係を想像して楽しんでいます。


〉答えをひとつに絞る必要はありますか?
ありますよ。
小説に限らず、答えをひとつに絞っておかないと、あれもいいこれもいいで、のれんに腕押しになります。主張の無い人、意見の無い人と話すのは私には退屈です。
その答えが正解ではないって可能性をいつも持ち続けているのが前提にはなりますが。

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