8月なのでもう少し怪談要素を含んだ小説が出ると思ったがそうでもなかった。まぁ、解釈、捉え方で変わるのですが。
「仮視」
失明というセンセーショナルなテーマであるのに、普通と言うのか、小説としての飛躍が乏しい感じがした。視界がなくなったことを別の表現(五感の一つが機能しなくなると別の感覚が研ぎすまされるようなことだったり)で置き換えられればもっと良くなったと思う。
それから読み直して、淡々とした小説でも、これはこれでありなのではないかと、それでもやはり、票は入れられない。それと、無駄な改行は鼻につく。
「雨に溺れる」
言葉を短く切ってある種の無機質さを漂わせる文体。感情のない説明文的な小説に徹するのも悪くはない。ただ、こういった場合、事件性や感情の起伏があって、それをあえて淡々とした文体で書くのなら表現として面白いと思うのだが、特に事件性のない子供の行動を淡々と書かれてもわたしには響いてくるものがない。
前作「存続の条件」には「ライフ」というシンボルがあって、小説の無機質さを面白いものにしていたが、今作ではそれがなかった。
「一週間後」
ある種のパターンを意図的にはめ込んでしまった文章は、もはや小説ではなくなっている。
その原因が何なのかを考え、それが「記録」だからなのではないのかとの結論に至った。と、ここまで書いてタイトルがいつものパターンと違うことに気が付いた。しかし、タイトルだけ替えても「記録」だということに変わりはない。「記録」というスタイルの「創作」はあるが、どうもこの作者にはそれが見えない。
「"@****たのしんで!"」
解釈に苦しむ部分《それに対象は私一人であるほうが君にとっては合理的だろう》《いくら》が見受けられる。前作もそうだったから、意図的ではないとわたしは解釈した。前作では表現の飛躍が意図的な可能性もあったので票を入れたが今回は控えよう。
今回の主人公、恵から転じて、前作の主人公も女なのではなかったのかとの疑問が湧いた。前作に主人公の性別は描かれていなかった。だから、こちらが勝手に男だと決めつけていた。今、主人公を女として読み返すと、それはそれで面白い。
「ガム」▲
こういう奇想天外さは好きです。
「あの人」と「店員のババア」が唐突に登場するのではなく、もっと伏線があってほしかった。紙幅が尽きた割りには「紙幅が尽きた。」と、区切りの良い1000文字丁度で終わる。何だか意図的なうさん臭さを感じる。1000文字以上の壮大さがここでブツリと断ち切られているようで残念。タイトルが残念。
「シャワーを借りる女」
会話や感情ではなく、状況を書くことで何かが見えてこないかと思っています。
「夏の夜の出来事」
日常を書くことで何かが見えることはあるが、今一歩、入り込めないでいるのは何が原因なのであろうか。先に書いた「記録」が重なる。
かげがない。ということを思う。陰がないから小説に光は差さない。だから、面白みに欠け、それが小説に入り込めない要因になっているのではないか。奇抜な設定ならば、カゲがなくとも小説の体裁は保たれるが、日常を書くのならば、その人の人間性なりに蔭を持たせた方が良かったのではないのであろうか。
ふと、こんなことが過った。「記録」をはき出すことで「浄化」しているのではないのか。
「ミヤマカラマツ.jpeg」
文字だけではなく、画像の存在を記号として捉えたことに新鮮味を覚えた。
高山で鳴く蝉には「エゾハルゼミ」があり、生息域は〜1000mだとのこと。ミヤマカラマツは草原ではなく林の中に咲く。モンベルを扱っているアウトドアショップ(モンベルストアを除く)は長野県に17店舗ある。ここまでは調べた。作者には実際の登山経験がありそうだ。作品タイトルはそそらない。
「風よ水よ人よ」●
ナチュラルな感じがして、それでいて「俺」と「後輩の嫁」の少し危うい関係性も読み取れる。そこから世界が誕生するかのような「風よ水よ人よ」という言葉の響きが何気ない風景にアクセントを与えている。作者は「言葉」を単なる「会話」としてではなく「記号」として扱うことに長けている。
生命としてあるべき姿、その第一は子孫を残すこと。「俺」ではなく「後輩」はそれをやってのけた。しかし、子供は死んだ。「風よ水よ人よ」とは一種、鎮魂歌のようでもある。
文字として書かれていない部分に読者が何を読み取るのか、それが作者の意図することでなかったとしても、その1000文字から先の世界が表現されているかが良い小説の条件のひとつであると感じた。「風よ水よ人よ」実際にある銘柄を出したのは評価できる。
「いつまでも君であれ」
正しく書かれてある印象を持つが、素材が生煮えのような感想も持った。前作もそうだったが、もう少し削ぎ落されて軽くなった文章があれば、もっと良くなったと思う。
「シンクロニシティ」●
偶然の一致を捉えた作品であるが、何かが起こりそうでいて起こらない、その卑猥さがたまらない。
評価とは少しずれるが、1000文字丁度で仕上げることに少し抵抗を感じている。1000文字は記号として美しいが、ある定まった形態に捕われ過ぎることには違和感を持つ。それでも1000文字プラスアルファを内包しているから票に繋がった。
「これこそ、愛だよ。」
氷をバリバリ食べる病気というものがある。原因は体内の鉄分不足らしいのだが。そんなことよりも、自分の中に取り込むことは究極の愛になるのであろうか。とか、考えていて、結局食べられるようなので安心した。二段改行って何の意味があるのであろうか。
「錯覚」●
季節感、言葉遊び、などがバランス良く、1000文字プラスアルファを内包した小説である。
「夏の庭の出来事〜夏という季節が確かにあったことを思い出す。」という小説最後までの時間の流れの中に、作者の言っている時間というものが存在しているのであろうか。考える。
タイトル「錯覚」には違和感がある。思い違いではなく、幻ではなかったのではないのであろうか。それとも本当の錯覚なのであったのか。
今回も裏メッセージが隠れているのであろうか。素直に読み切れない。「黄色い服=防護服」「目のサンカク=防毒マスク」またはテニアン島、原爆搭載地点にある三角屋根の記念碑。
小説の中に流れる時間以上のものを表現したくて、作者は間接的にメッセージを入れ、それが、過去や未来もの時間を小説に内包させているのではないのか。