設定としての「時間」を考えたとき、例えば、「時刻表トリック」のような数学的な時間設定、「時間のない世界」など小説の世界観をあらわす時間設定がまず頭に浮かびました。
euRekaさんは「時間」を設定だと定義していますが、年齢、性別、性格などを設定したキャラクターが何かを起こし、または巻き込まれ、それが一転し、オチとなる最後をむかえる、このような流れの小説を想定した場合、わたしの考える「時間」は、先に揚げた場合を除き、小説の中に既に存在しているものだとの認識をしています。
キャラクターが動けば、そこには必然的な「時間」が生まれ、小説の文字数によりその「時間」は膨張していく。この必然的な「時間」を、わたしは、設定としての「時間」とは違うものだと考えました。
草稿など案の段階で、この小説はキャラクターの一日を追ったものである、または、一生を追ったものであるといった「時間」の流れを考えることもありますが、それは、1000文字といった制約の中である程度制限されますし、もちろん文字制限がなくても、設定というよりは、むしろボリュームと捉えたほうが妥当だと思います。だからこれも、設定としての「時間」ではないと認識をしました。
また、小説を読むためには現実世界での「読書する時間」というものが必要になります。絵画などの視覚情報では理屈を通り越して一瞬で好き嫌いが識別できますが、文字である小説はある程度読まなければ、その善し悪し、好き嫌いは識別できません。わたしはこれが結構重要なことだと考えています。
「小説を読むためには時間がいる」
これは、設定としての「時間」や、必然的な「時間」とはまた別の、小説にかかわる第三の「時間」だと思います。小説という仮想の世界を、現実の「時間」を使って読む。「時間のない世界」という小説を「時間」を使って読む。上手く言えませんが、このことは少なからず小説に作用しているはずです。
「半畳一間の礼拝堂」をラムネを飲みながら読む。
「忖度な一杯」をコーヒーを飲みながら読む。
そのことで何かが変わってくるのだとわたしは信じています。
というような「時間」についてのわたしなりの解釈を書いてみましたが、もう少し煮詰めようかなと。
返答が遅れてすみません。
私が前回(8/4)書いたものは、私がその前(6/9)に書いた「小説の定義」のことについて、岩西さんが掲示板で意見を書いているなと思って返答したものです。そして前回は、岩西さんの小説に対する考えを否定する目的ではなく、私の言葉がうまく伝わっていないように思えたのでその誤解を解くという目的で書きました。
まず、われわれのこれまでの話の流れを整理するとこうなります。
euReka:
この定義(私の考える小説の定義)の中の「物語」とは、時間の流れが語られているもののこと
↓
岩西:
我々は時間というものを感じて生きている。これは事実である。ということは時間のない小説などあり得ないことになる。
↓
euReka:
物語(小説)の中の「時間」というのは、つまり時間の流れを設定するということ。だから知らない間に、必然的に「時間らしきもの」が物語に刻まれるということではなく、作者が意図的にそれを設定するということ
↓
岩西:
「時間」は、先に揚げた場合(数学的な時間設定や、小説の世界観をあらわす時間設定)を除き、小説の中に既に存在しているもの
私(euReka)は、物語(小説)を規定する「条件」について話をしているつもりです。しかし岩西さんは、物語(小説)に含まれる「要素」についての話をしているのではないでしょうか。
私は、物語(小説)とそれ以外の文章表現を分けるものは何かという文脈で話をしています。岩西さんの話も興味深いのですが、私と岩西さんは、お互いに話の趣旨がずれていると思います。私の説明がまずかったか、不十分だったことがその原因でしょう。
いずれにしても、今回は話を混乱させないために、お互いの「話のずれ」について指摘するだけにとどめておきます。
話しの整理ありがとうございます。
脱線していることを承知で持論を持ち出したことは認めます。おおよその会話の流れはeuRekaさんの説明の通りです。
ただ、euRekaさんのおっしゃる「小説の条件としての時間」というものを頭では理解できるのですが、自分の中の感覚として、もしくは実際の創作作業として、小説に取り込むという状態がどうも分からないというのがわたしの正直な感覚であります。
「小説の条件としての時間」というものがあるのは分かるのですが、「小説の条件としての時間」というものがわたしには見えないのです。
この説明を書いている自分に対して、うまく書けていないと指摘する自分がいます。不完全なのでしょう。もう少し考えたいと思います。
〉 ただ、euRekaさんのおっしゃる「小説の条件としての時間」というものを頭では理解できるのですが、自分の中の感覚として、もしくは実際の創作作業として、小説に取り込むという状態がどうも分からないというのがわたしの正直な感覚であります。
「定義」や「条件」というのは、客観的に、あらためて考えてみるとこうなんじゃないかという性質の事柄なので、実感として感じられるものとは少し違うのかもしれません。
例えば、われわれは「家」というものに住んだり、または外から眺めたりしますが、その「家」というものがどういう構造で出来ているかということは普段意識することはないし、詳しいところまではよく知らないという人も多いと思います。小説もそれと似ていて、普段、小説を読んだり書いたりしていても、それがどういうふうに出来ているかとか、どういう条件で書かれているのかということを意識することはあまりないでしょう。あるいは、小説を書く人の場合は、その文章を小説という形にしなければならないので多少は意識するかもしれませんが、常にそれを意識しながら書いているというわけではないと思います。
〉「小説の条件としての時間」というものがあるのは分かるのですが、「小説の条件としての時間」というものがわたしには見えないのです。
以前と同じような説明で申し訳ないのですが、私の考える「物語(小説)の条件としての時間」というのは、〈物語によって生み出された世界〉の中を流れている時間のことです。それを読んでいると、その物語世界の中で一緒に時間を過ごしているような気分になる、という感覚だと言ってもいいかもしれません。そしてその「時間」は、意識的であれ無意識的であれ、作者の創作行為によって生み出された時間です。岩西さんの場合はそれを無意識にやっているということかもしれませんし、または、そうじゃない別の何かを捉えているということかもしれません。
いずれにしても、自分なりの小説の定義や条件を考えてみてはどうでしょうか。そうすれば、自分でも納得のいく何かが見つかるかもしれません。