チキンさん、こんにちは。
チキンさんのおっしゃることはなかなか正しいことだと思います。
〉 自己判断。それは、一歩間違えると自己満足、独りよがりと呼ばれるたぐいになってしまいます。しかも、自分がリズールであると思っておられる方ほどその迷宮から抜け出しにくいのも事実です。やはり、第三者が読んではじめて成り立つのではないでしょうか?
まず、私は作品は「自己満足」で「独りよがり」で構わないと思ってます。そこはチキンさんと違うかもしれませんね。「チラシのうら」でいいと思ってるんですよ。というのは、本当に優れている作品というのは、たとえばーーまあ、有名どころでゴッホを出しましょうか。ゴッホは生前、ほとんど絵が売れずに死んだわけでしょう。耳切り落としたりして、まあアホだったわけですが、絵が好きだった。後年、「画商」なり「批評家」が彼を発掘して、いまでは大ゴッホになった。
私にとっては小説もその路線でいくのが正当だと思っている。村上春樹だって、吉行淳之介あたりが選考委員じゃなかったら最初の群像を受賞してなかったんじゃないでしょうか。でも彼はおそらく当時の日本文壇に媚びるような作品は書いてないですよね(たぶん)。今でこそ「みんな大好きムラカミハルキ」になってるものの、はじめはとても異端だったと思いますよ。
つまり、私は作品は「自己満足」からはじまって、問題は作者がその「自己満足」の質を高める努力をしていけるか、ということにかかってるんだと思うんですが、そういうところどう思いますか? 私もチキンさんと同じように、小説は読者あってのものだとは思う。けれども、ここから少し矛盾も入りますが、読者を意識せずに書き上げてそれでも読者が読んだら満足してしまう・・・・・・そういう作品が後世に残っていくような気がするわけですよ。
だから、コピーライター出身の作家(原田なんとかとか?)の場合、デビュー作品はよくても10年くらいで消えてしまってますよね。読者に何がうけるか、うけるか、と考えているのって、なんだか電車の中のスリの目つきみたいに、だんだんみえてくるように思えるわけですよ。
〉 プロの場合、一級のリズールである「編集者」と呼ばれる方々がいるゆえに、普遍的な作品が残せるのだと思います。
〉 ただ、「短編」に投稿される作者さん達の何人が友人や家族など、身近に「編集者」を持っているのかは非常に疑問です。
そのとおりだと思います。ですから、「短編」では書き手(といっても、ほとんどが素人同然のやや読書好きの集まり)がそれぞれの作品を批評していくのはいいことだと思うわけですよ。それで私が「否定的な意見」を嫌うのは、それが今回のチキンさんの指摘のような「まとも」だったら歓迎なわけだけど、ただうっぷんばらしと受け取れかねないような否定ばかりだったらそれはサイトつぶしじゃないか、と思った次第です。
〉 私的には、己の感じたまま「面白い」「つまらない」だけで判断する方が一流の「読者」だと思います。そこから“なぜ”面白いのか、“なぜ”つまらないのかを述べる方が「批評家」です(プロの批評家はほとんどが“褒める”方向で仕事をしてらっしゃいますよね)
そのとおりです。そのとおりですよ。だから私は本来「短編」に投票制度はいらないんじゃないか、と思ってるくらいです。だいたいこの「あいまいな」決勝やら優勝やらは、本来の「おもしろいかつまらないか」の読者には興味ないんじゃないんですかね? それでも、書き手にもハリがでてくるので一応機能しているとは思うのですが、あまりここでの予選突破やら全作品感想にこだわる必要はないと思う。長月さん同様、私もタイトルと始まりの一文で「肌にあわないな」と思うのは読まないときもありますし、それが「読者」なんじゃないでしょうか。